不幸な事故というのは、不慮のタイミングでやって来る。そして一生消えることのない傷を残して去って行く。
 今の私のように。
 あの事故の所為で、私は自分の足で歩くことが出来なくなった。車椅子がないと、近所の郵便ポストに手紙を出しに行くことすら叶わない。
 仕事も辞める羽目になった。満員電車に一時間揉まれ揺られることは、今の私には無理だ。でも、ちょうど良い機会かなとも思った。あまり悪口は言いたくないけど、あの会社はあまり好きではなかった。社内の雰囲気がいつでも最悪だったから。同期の人たちとは仲が良かったけど、その分、上司とはことごとく仲が悪かった。私以外の同期のみんなもそう。だから辞めたことを後悔はしていない。
 しかしそんな会社でも、辞めたらぽっかり心に穴が開いたような気分になった。再就職が難しいという思いがあったからかもしれない。
 仕事がなくなってから、私の心は段々と荒んで行った。
 自分一人では何一つ満足に出来なくて、生きることが不自由すぎて、とても辛い。こんな気持ちをずっと持ち続けなきゃいけないのなら、いっそ死んだ方がマシだと思った。
 でも、死ななかった。
 彼のおかげだ。
 彼は、自暴自棄になった私を嫌いになることなく、ずっと傍にいてくれた。温かい言葉をかけ続けてくれた。こんな私のことなんか忘れて別の良い人を見つけて幸せになってと何度も言ったけど、その度に彼は優しく微笑んで、今も十分に幸せだと言ってくれた。
 私の荒んだ心も、随分と回復した。死んだ方がマシだなんて思っていた頃が、遠い昔のように思えるほどに。

 ある日、彼が突然こんなことを言った。
「会社辞めて来た」
「え……?」
 彼の会社のことは、私もよく知っている。車椅子生活になる前は、私もそこで働いていたから。彼とは一緒にチームを組んで、同じプロジェクトに携わったりもした。
 彼の顔は随分とすっきりしていた。だからきっと、リストラの類ではないのだろう。もっともあんな会社なら、リストラにあっても落ち込まないと思うけど。
「辞めたって、どうして?」
「自分で会社を興すことにしたんだよ」
「独立するってこと?」
「スキル的には問題ないと思うんだ。ちゃんと仕事が取れるかどうかは分からないけど、何とかなると思う」
 ホームページ制作。それが私たちのやっていた仕事。彼は有能だから、確かにスキル面では問題ないと思う。仕事も取れるだろう。彼ならば。
 でも、あまりにも急な話だったので、驚きを隠せなかった。
「辞める積もりだったなら、一言くらい言ってくれれば良かったのに」
「うん。実は辞めるって決めたの、つい最近のことなんだ」
「そうなの?」
「自分で会社興そうっていう思いは、前からあったんだけどね。タイミングがね」
「そうなんだ……」
「でも、君も最近は前の明るさが戻って来たし、そろそろかなって思ったんだ」
「? それが、タイミングなの?」
「ああ。今の君なら、もう一度前向きに働くことも出来るだろう?」
 一瞬、不安が過ぎった。
 明るくなった今の君なら一人で生きて行けるだろうから、もう僕がそばにいなくても良いよねとか、そんなことを言われるんじゃないかと思った。今まで会社を辞めなかったのは、私を養う為に安定した収入が必要だったから。でもその必要がなくなったから、冒険に出ることを決めたんじゃないかと、そんなことを思ってしまった。
 でも、それは大きな勘違いだった。
 彼はにっこりと笑って、私の手を取った。
「だから、君と二人で会社を作ろうと思ってね」
「……へ?」
「自宅が会社だったら、通勤の心配もないだろう?」
「……そ、その為に、会社を?」
 彼は優しく微笑むだけで、何も言わなかった。
 しばらく見つめ合った後、彼は言った。
「また一緒に、頑張ろう」
「……うん!」
 そう答えるのが精一杯だった。少し経ってから、ありがとうって言いそびれたなって気づいたけど、出るのは涙ばかりで、その一言は上手く出て来なかった。
 今日はタイミングを逃しちゃったから、また今度、ちゃんとありがとうを言おう。心の底から、ありがとうと言おう。何度も言おう。一生分のありがとうを使い切っちゃっても構わない。
 この時は、そう決めただけで、結局私はありがとうと言えなかった。

 それから、私たちは以前のように、二人で協力して仕事をこなした。しばらく制作から遠ざかっていたから、感覚が戻るまでには少しだけ時間を要したけど、彼がフォローしてくれたおかげで、何とか順調に会社は回っていた。
 時々、前の会社の同期の子が顔を出してくれた。一緒にお酒を飲んだりしながら、私も知っている上司のグチ大会をすることがほとんどだったけど、たまに私たちの仕事を手伝ってくれたりもした。
 とても充実した日々だった。彼には申し訳ないと思いつつ、再就職とか若干諦めていたところがあったけど、またこうして働くことが出来て、特に彼と一緒に働くことが出来て、私はとても幸せだった。
 彼と一緒なら、私は何処までも頑張って行ける。彼と一緒なら、この道を何処まででも進んで行ける。何も迷うことはない。
 彼と一緒なら――。

 不幸な事故というのは、不慮のタイミングでやって来る。そして私の大事なものを奪って去って行く。
 二度と取り返すことの出来ない場所に。
 私はいつものように、自宅兼会社で仕事をしていた。彼は打ち合せで朝から不在。
 それでも、お昼過ぎには戻って来るはずだったから、彼が戻って来たら二人で一緒にご飯を食べようと思って、私はお昼を食べずに待っていたのだけれど、夕方になっても彼は帰って来なかった。
 心配になって電話を掛けたけど、一向に出ない。メールもしたけど返事が来ない。
 夜になって、私の電話の着信音が鳴った。彼からだろうと思って、画面も見ずに私は電話に出た。
「もしもしどうしたの? 電話しても全然出ないし」
「――ですが」
「……はい?」
 彼からだと思い込んでいたから、最初の方をちゃんと聞いていなかった。
 改めて聞いてみると、電話の相手は、病院の関係者だった。私もお世話になったことのある病院だから、名前は知っていた。
 その人の話は、極めて簡潔だった。
 彼が事故に遭い、病院に搬送された。手を施したけれど、助からなかった。
 それだけだった。
「嘘……ですよね? ねえ? 助かりますよね? 私も前に事故に遭ったことがあるんですよ。でも、歩くことは出来なくなってしまいましたけど、命は助かりましたよ? どうして彼は助からないんですか?」
「落ち着いてください」
「私の時と同じような事故に遭って、どうして彼だけ助からないんですか? それって変じゃないですか? ねえ? どうしてですか?」
 私は何度も訊ねた。でも、その人の答えは一緒だった。
 彼は、助からなかった。
「そんな……」
 彼がいないと、私は何も出来ない。彼がいないと、私は生きられない。彼がいないと、私は前に進めない。
 彼がいないと、私は――。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 彼が死んでも、時間は止まらなかった。
 葬儀が行なわれて、彼の両親から今までありがとうねと言われて、棺が運び出されて、前の会社の同僚たちに元気出せよと言われて、遺体が火葬されて――。
 そして私は、独りになった。
 ありがとうと伝える前に、彼はいなくなってしまった。
 何もかもがどうでもよくなった。彼と一緒に興した会社も、彼がいないのなら、もう続ける意味もない。ここは、彼と私の、二人の居場所だから。
 手がけていた仕事も軒並み放棄してしまい、クライアントには物凄く怒られたけれど、それももう、どうでもよかった。
 どうせ私は、彼がいないと頑張れないのだ。このまま続けていたって、いずれは切られていただろう。こっちから切るか向こうから切って来るか、その違いがあるだけだ。
 会社は開店休業状態になり、私も以前のように、いや、前以上に荒んだ。
「私も……死んじゃおうかな」
 そんなことを思う機会が、段々と増えて行った。どうせ一人では何も出来ない私が死んだところで、誰も困らないだろう。

 なかなか踏ん切りがつかなかったけど、日増しにその思いは強くなり、いよいよかなと自分でも思った頃、同期の一人が久しぶりにやって来た。
「よう。元気してるか?」
「……どうしたの、今日は?」
「ちょっとした用事があってな。用事っつーか、お願いかな?」
「お願い?」
「ああ。実は俺、会社をクビになっちまってさ。ほら、俺たちって、上司と仲悪かっただろ? それでも今までは我慢して仕事してたんだけど、先日、ついにキレちまって」
「そうなんだ……」
「で、仕事見つけなきゃって思ってんだけど、ここの会社って、人募集してねーの?」
「ごめんなさい。ウチはもう……」
「一応履歴書も持って来てるんだけど、良かったら面接してくんねえ? 仕事も何件か持って来れるぜ。辞める時、クライアントを何人か引っ張って来たからな」
「え……?」
「まあ、あいつの代わりは務まんねーと思うけどさ。それでも、仕事の手伝いくらいは出来るから、遠慮なくこき使ってくれよ」
「で、でも……」
 私が戸惑っていると、今度は別の同期の子が、やって来た。
「やっほー。久しぶりー……って、あれ? 先客がいたのね」
「よう」
「まあいいや。それより、実は今日は相談事があって来たんだけど、良かったらあたしの話、聞いてくれる?」
「……相談事?」
 何となく、彼女が何を言い出すのか予想がついた。
「実はあたし、会社クビになっちゃってねー。まあ、ずっと辞めたいなーって思ってたから、クビになってせいせいしてるんだけどね。で、次の仕事探してるんだけど、良かったらあたしのこと、この会社で使ってくれない? あ、もちろん無条件ってわけにはいかないだろうから、面接の準備とかはして来たよ」
 予想通りだった。先ほど同様、彼女も履歴書を用意して来ている。
 突然のことが二度も続いてかなり混乱していると、更に同期の子が一人二人とやって来て、結局、同期の全員が、会社を辞めた、雇ってくれ、と訪ねて来た。
「みんなで一斉に、辞めちゃったの……?」
「ずっと前から限界には来てたからなぁ。それにほら、よく言うだろ? 赤信号、みんなで渡れば怖くないって」
 要するに、全員で上司にキレた結果、全員クビになったと。
「あんな奴らのところで一生奴隷やるくらいなら、ここで奴隷やる方がマシだって思ってな。まさかみんながみんな、同じこと考えてるとは思ってなかったけど」
「みんな、心配だったのよ。あなたのことが」
 二番目に訪ねて来た彼女が、私を見てそう言った。
「……じゃあ……」
 クビになったというのは、嘘なのか。本当は、自分からあの会社を辞めたのだ。
 最初からみんな、ここに来るつもりだったのだろう。
 ――私の為に。
「まあ、そういうわけだからよ。これからよろしく頼むぜ、社長」
「……ありがとう」
 私は、何度も何度も、みんなにありがとうと言った。タイミングなんか関係ない。そんなものを窺っていたら、二度と言えないかもしれないんだ。伝えたい時には、もういないかもしれないんだ。
 だから、伝えたい言葉があるなら、言える時に言っておかなければいけないんだ。

 その日から、私たちの会社は再出発を始めた。同期のみんなが持って来てくれた新規のお仕事はもちろん、以前に放棄してしまったクライアントたちにも散々謝って、何とかもう一度仕事を引き受けさせてもらうことが出来た。
 私の荒んだ心も、再び回復して来た。
 彼はもう傍にいない。彼と一緒にこの道を進むことはもう出来ない。
 でも私は、再び進み始めた。本当は彼と一緒に進みたかったけれど、それはもう叶わないから、新たな仲間と共に、私は前に進んで行く。
 この道を進んで行けば、いつかは彼のところに辿り着く。でもそれはずっと、ずーっと先のこと。
 彼はゴール地点で、私を待ってくれている。だからゴールした時、私は言うのだ。
 言いそびれたままになっているあの言葉を、何度も、何度も――。