「タイムスリップしてえなぁ……」
 またか、と達也は思った。
 カラスの鳴き声を聞かない日はあっても、このセリフを聞かない日はない。
 テレビの中の敵キャラと格闘しながらコントローラーと格闘している達也の後ろでベッドに寝転がりながら本を読んでいる男――修司は、こうしてSF小説を読むたびに、同じセリフを漏らす。
 何が彼をそんなに駆り立てるのか、達也には全く分からない。
 いや、全くというのは嘘かもしれない。
 確かにタイムスリップというのは、魅力的な単語だ。自分の知らない過去に行ったり、自分が死んだ後の未来に行ったり、そこでどんなことが起こったのか、あるいは起こるのか、本来なら見られないはずの世界を見ることが出来るのは、面白いことだとは思う。
「そんなにしたいのか、タイムスリップ?」
 達也はテレビ画面から視線を外さずに後ろに向かって声をかけた。
「お前はしたいと思わないのかよ、達也?」
「少なくとも、そこまで執着するほどじゃない」
「好きな歴史上の人物は?」
 最も苦手な質問の一つだ。そういうのを聞かれてパッと答えられる人がうらやましいと、達也はいつも思っている。
 だから――
「……諸葛亮孔明」
 画面の中で今まさに千人斬りを達成しようとしている天才軍師の名前を適当に挙げた。
「もしも孔明に会うことが出来たら、お前どうするよ?」
 背中から修司の声。
「俺は中国語が話せない。だから言葉が理解出来ない」
「だったら中国語勉強しろよ」
「空想科学のために外国語を学べって?」
「お前、ロマンねえなぁ」
「ロマンでタイムスリップが実現するなら、俺の辞書の半分をロマンに換えてやってもいいな」
「お前の辞書を書き換えたくらいで、世の中の物理法則が覆せるかよ」
「よく分かってるじゃん」
 はぁ、と修司が大きな溜め息を漏らした。
 心底残念そうだ。
 科学的に、タイムスリップは不可能とされている。先人達の偉業の甲斐もあって、世の中の物理法則というのはなかなかよく出来たものに仕上がっているから、タイムスリップが本当に可能であることを証明するのは、火星人の存在を証明することよりも困難なことだろう。
「でもよぉ、本当にタイムスリップって実現不可能なのか?」
 背後で修司の動く気配がする。
 ちょうど千人目に敵将を討ち取り、無事に五丈原の戦いに勝利した達也は、コントローラーを離し、後ろに振り返った。
 修司が半身を起こして達也を見ている。
「修司。お前、タイムスリップがどうして不可能なのか知らないのか?」
「何で?」
「そこまで執着するくらいだから、タイムスリップのことについていろいろと知識を持ってるんじゃないかと思って」
「まあ……多分お前よりは詳しいよ」
「それを踏まえた上で、さっきのセリフが出てくんのか?」
「ロマン」
 修司がぐいっと上半身を前に倒し、内緒話でもするかのように達也の方に近づいた。どうせこの部屋には二人しかいないのだから、顔を近づけて声のトーンを下げる必要は全くない。
「俺、自分なりにタイムスリップの理論を考えたんだ」
「もしそれが実現可能なら、お前は近い将来ノーベル賞がもらえるぞ」
「タイムスリップ出来りゃ、俺が将来ノーベル賞取ってるかどうか見れるな」
「ノーベル賞を取ってるかどうか確認出来る時点で、タイムスリップは実現してるじゃんか。間違いなく取ってるだろうよ」
 もっとも、それが修司の理論によるものかどうかは、また別の話だが。
「で? その理論に自信はあるのか?」
「聞いてくれるか?」
「俺に理解出来るならな」
「大丈夫だ、説明は中国語じゃない」
「……それは助かる」
 時計の針はL字型だった。

 修司の話が一通り終わった時、時計の針が形作る文字は、LからIに変わっていた。
「……どう?」
 満足気な笑みを漏らす修司。フルマラソンを完走し終えたランナーよりも、その顔は達成感に満ち溢れていた。
「うん、まあそのなんだ。非常にユニークな話だったよ」
「そっかぁ……」
 修司はユニークの意味を取り違えているのかもしれない。うんうん頷いて、達也の感想を嬉しそうに受け入れていた。
「どうだろう? 実現出来そうかな?」
「タイムスリップでノーベル賞?」
「ノーベル賞はどっちでもいい」
「そうだなぁ……」
 何て言ってあげたらいいのか、達也は迷った。
 修司のタイムスリップ理論は、お世辞にも理に適っているとは言いがたい。達也の判断では、ということになるが。
 話自体は、前述の通り、非常にユニークなものだった。インタレスティング、という単語を付け加えてあげてもいい。しかし、それを本気で科学的に検証した場合、修司には悪いがリグレットという言葉しか送ってあげられない。
 でも、言い出しづらい。
 話を聞く前は軽く鼻で笑ってやろうかとも思っていたが、修司の、悪の心を全く持たない聖人君子ですら見せないほどの純真無垢な笑顔を目の前にしたら、彼の持つ壮大なロマンを壊すことが、とても罪深いものに思えてしまった。
「あー……お前の理論はすごいよ。俺には理解出来ない部分もあったけど、誰もが思い付かないような発想が出来ていると思う」
「だろ? そうだろ?」
 実に良い笑顔だ。男相手にこんな言葉を使いたくはないが、百万ドルの笑顔という表現が当てはまる。
 余計に下手なことが言えない空気になってしまった。
「でも、今はそれを可能にする技術がないんじゃないかなぁ。話は面白かったから、それで小説でも書けば、ノーベル賞は取れなくても、SF作家大賞はもらえるかもな」
 その瞬間、修司がより一層の笑顔になった。
「そうか、それだ! 小説書いて世に俺の理論をアピールすればいいんだ!」
「……え?」
「いやー、お前に話して正解だったぜ。マジありがとう!」
 修司は飛び跳ねるようにベッドから降り、パソコンを起動させた。
「善は急げ。早速書き始めるぞ!」
「お、おい……修司」
「小説を読むのは好きだけど、まさか自分で小説を書くことになるとはな」
 ――ダメだ、止まらない。
「小説を書いて新人賞を取って本が出版されたら、きっとどこぞの科学者が読むはずだ。その人が取り上げてくれりゃ、完璧だ!」
 水を得た魚とはまさにこのことか。燃え盛る太陽のごとく、修司の心は核融合を起こして燃えたぎっているみたいだ。
しかし取らぬ狸の皮算用も、まさにこのことだろう。明らかに間違った方向に活性化されている。
「修司……お前、前向きだな」
「こういうのは勢いが大事だからな」
「向いてる方向はマイナスなんだけどな……」
 達也は、修司に聞こえないように、ぽそっとそうつぶやいた。

 次の日、達也はクラスメートの翼と一緒に机を合わせて弁当を広げていた。
「修司がそんなことを?」
「ああ……あの瞬発力はすげえんだけど、方向がずれてんだよ。全く見当違いの方向に大砲が飛んでってるぜ」
 とは言ったものの、その大砲の筒を全く見当違いの方向に向けたのは、他ならぬ達也自身だ。だからあまり偉そうなことは言えない。
「でさ、翼。お前はあいつの理論、どう思う?」
 言いながら、達也は玉子焼きを箸で摘まんで口に放り込んだ。
 翼は、学内で一番頭が良い。成績は常に学年トップだ。達也とはまた違った意見を聞けるだろうと思い、修司から聞かされたタイムスリップ理論を掻い摘んで説明してみた結果が、さっきの翼の一言だ。
 いくら頭が良いからと言ってノーベル賞を取るほどの頭があるかどうかは分からないが、達也より理解力が圧倒的に上なのは間違いない。全く別の視点からの意見を述べてくれることも期待できる。もしかしたら修司にリグレット以外の言葉を送ってやれる可能性も、万が一のさらに一万分の一くらいは出てくるかもしれない。
 翼がどんな意見を言おうと、それで何があるわけでもないのだが、修司を間違った方向に導いてしまった罪の懺悔をしようとでも思っているのだろう、きっと。
「話は理解出来たか?」
「うん、大丈夫だよ」
 さすがは翼だ。達也は素直に感心した。
「反時流エネルギーか。修司の発想力もなかなかだよね」
「SFのネタとしてはなかなかだと、俺も思うんだけどな」
「それで、達也の一言がきっかけで、彼は小説を書き始めたと」
「あいつのロマンを壊すのが忍びないって思って言ったことだったんだけど……全く、ロマンってのは難儀な奴だな」
 ロマンに責任を転嫁したところでどうにもならないし、何よりロマンに罪はないのだが、そう言わずにはいられない。
「でも、修司の理論はよく出来てたよ。ロマンも捨てたもんじゃないと、僕は思うけどね。人がロマンを捨てなければ、火星にだってそのうち移住出来るよ」
 翼の声が耳に入った瞬間、タコさんウインナーを掴もうとした箸が寸前で止まった。
「……お前、今何て言った?」
「火星移住も夢じゃない」
「その前だ」
「ロマンも捨てたもんじゃないと、僕は思う」
「違う、もっと前」
「修司の理論はよく出来てた」
 ――よく、出来てた?
 当然の疑問が頭に浮かぶ。
「おい翼。まさかとは思うけど、お前って……」
「小説の完成が、とても楽しみだね」
 翼が屈託のない笑顔を達也に向けられる。
「……ああ、そうだな」
 達也も翼に微笑み返し、タコさんウインナーを摘まんだ。
「ロマンってのも、捨てたもんじゃない……か」
 箸の先端を見つめる達也。
 摘ままれたタコさんウインナーは、捕らえられた火星人のようだった。