僕のご主人様は、一言で言えば乱暴だ。僕はSMクラブというところに行ったことはないけれど、多分、あそこには僕のご主人様みたいな人で溢れているのだろう。
 とにかく、何かにつけて怒る。罵る。叩く。
 屋敷の掃除をしていても、ドラマで嫁いびりをする姑みたいに、ホコリが残っていると言っては僕を使えない奴と言って罵り、料理が好みに合わないと言っては食器を僕に向かって投げつけ、娘の勉強を見てくれと言っておきながら、僕が彼女と勉強の合間に談笑をしていると、娘に色目を使うなと怒鳴り散らす。
 何でこんな主人にずっと仕えているのか、自分でもよく分からない。それでも僕は、ご主人様から離れることはできなかった。
 ご主人様はいつも怒っている。常にストレスを溜めているように見える。
 そんな母親を見て育ったせいなのか、娘はとても優しい人だ。僕がこの屋敷に仕えるようになってまだ一年も経っていないが、その間、お嬢様は僕の前ではずっと笑顔を絶やさずにいた。従者である僕にも優しくしてくれる。
 自惚れるつもりはないけれど、娘さんは僕のことをそれなりに好意的には思ってくれているようだ。もちろん、その、一人の男性としてとかそういうことではなく、屋敷に仕える者として、不要な存在とは思っていない、という意味だ。まあ、良いオモチャという意味では、ご主人様も僕のことを不要とは思っていないのだろうが。
 正直、一年近く仕えていて、僕の心身はボロボロと言って良い。それでも、お嬢様が優しく接してくれるおかげで、何とか仕事を続けることができている。

 そんなある日のこと。
 いつものようにお嬢様の勉強を見ていると、いきなりこんなことを言い出した。
「あの……この屋敷から、逃げる気ありませんか?」
「え?」
「あの母親のお世話をこれからも続けるの、辛くありません?」
「い、いえ、別にそんなことは……」
 本当はあるのだけれど、まさかお嬢様にそれを言うわけにもいかない。
 でも、そんな僕の心を、お嬢様は完全に見透かしているようだ。
「ふふ、無理をしなくても良いのですよ。あなたの様子を見れば分かりますから」
「はあ……」
 見透かされているのなら、もはや隠す必要もないか。
「で、ですがその……そんな簡単には……」
「大丈夫ですよ。私が手伝いますから」
「はあ……え?」
 お嬢様は手に持っていたペンを置き、僕をじっと見つめて来た。
 頬が上気していて若干赤く染まっている。
「私……あなたと一緒になら……その……どこまででも」
「……ええ!? い……いやいやいや! それはさすがに……」
 手引きをしてくれるだけならともかく、一緒にというのは、いくらなんでもまずい。
 それではまるで、駆け落ちではないか。
 お嬢様が僕を嫌っていないのは感じていたけれど、まさか――。
「私と一緒に行くのは、嫌ですか?」
「い、いえ、その……嫌とかではなくて……」
「ふふ、では決まりですね。決行は四日後にしましょう。その日は母も会食会で深夜まで帰って来ませんし、機会としては絶好だと思います」
 僕がどもっている間に、お嬢様は逃亡計画を実行可能な段階まで進めてしまった。

 でも、その四日後はやって来なかった。
 親の心子知らずとはよく言ったものだが、子の心はわりと親に筒抜けなのだ。
 結局、逃亡を実行に移す前に、ご主人様にバレてしまった。
 バレた時点で分かっていたことだが、ご主人様はかつてないくらいに怒っていた。
「いったい何考えてるの! 駆け落ちなんて……そんなの許すと思って!?」
 ご主人様の怒りは僕に向くのだろうなと思っていたら、意外や意外、彼女の怒りはほぼ全て、娘のお嬢様に向けられていた。
「だってお母様は、いつもいつもこの人に辛く当たってばっかりで……このままこのお屋敷にいたって幸せにはなれないわ! それに……」
 お嬢様は大きく息を吸って、ご主人様をきっと睨んだ。
「……私はこの人を愛してるんです!」
 言ってしまった。
 ただの従者に、それもご主人様から見て出来損ないの従者に、自分の愛娘が恋をしてしまった。そんな事実を知ったら、どれほどの怒りが湧いてくることか。
 何だかんだでご主人様はお嬢様を大切に想っているから、この場合、多分、頂点に達した怒りは僕に対して爆発するのだろう。
「ふざけないで!」
 予想通りに、ご主人様は激昂した。
 今度こそ、正真正銘に暇を出されるかもしれない。お嬢様との駆け落ちはともかく、クビになるならなるで、それも良いかなと少し思った。
 ところが――
「私の方が、この人のことを愛しているのよ!」
 ……あれ?
 今、ご主人様は何と言った?
「あなたはまだ高校生でしょ!? 男性と添い遂げるなんて、まだ早いわ!」
 何か、話がおかしな方向に進もうとしているようだ。
「では、どうしてお母様はこの人に辛く当たるのですか?」
「そ、それは……だって、あまりにもこの人が頼りないから、このままじゃ私に相応しい男性にならないと思って……」
 それを聞いたお嬢様は、口元に手を添えてクスッと笑った。
「その言葉が聞きたかったですわ、お母様」
「……へ?」
「お母様はこの人のことを好いてることくらい、分かっていますわ。でも、いつもその思いとは逆の行動を取ってばかり」
「……ま、まさかあなた……私を試して?」
 ふふ、と笑うだけで、お嬢様は答えなかった。
「あ、あの、お嬢様……もしかして、私に一緒に逃げようと言ったのは……」
 ご主人様に本音を言わせる為の、狂言だったと言うのか。
 お嬢様はやはり上品に微笑むだけで、僕の質問には答えなかった。
「お母様。正直に仰ってください。いつも無能と罵っていますが、本当にこの人のことを無能だと思っているのですか?」
 ご主人様は顔を真っ赤にして、目を背けた。
「ふ、ふん! この私が、無能な人を従えるわけがないでしょ!」
 その言葉を聞いて、拍子抜けしてしまったというか、ものすごく気が緩んでしまった。
「じゃあ、今までのは全部……」
 僕にハッパをかけるために、辛く当たっていただけだと言うのか。
 全身の力が抜けて、僕は情けなくその場にへたり込んでしまった。
 そんな僕を、お嬢様は優しげな眼差しで見つめていた。
「お母様はこう言っていますが、どうしますか? ちなみに私があなたを愛しているのは、噓偽りない本当の気持ちです。あなたが私と一緒にここを出て行くと言ってくれれば、私はついて行きますよ」
 顔はいつもの優しいままだが、目は冗談を言っているようには見えなかった。
「……わ、私は……」
 僕は――。

 あれから、さらに一年が過ぎた。
「ほら、さっさと来なさい!」
「はい、ご主人様」
「まったく、あなたはいつまで経っても鈍臭いままね!」
「申し訳ございません、ご主人様」
「ふん! 早く私の服を脱がせなさい。それと恥ずかしいから電気も消して」
 結局僕は、ご主人様の元を離れなかった。
 もしかしたら、僕は何となくでも分かっていたのかもしれない。
 僕がずっとご主人様の元を離れなかったのは、ご主人様の本音の部分に、何となくでも気づいていたからなのかもしれない。
 多分、これから先も、僕はこの人にたくさん怒られることにはなるのだろう。
 もしかしたら、それが本当に嫌になる日も、来るかもしれない。
 お嬢様も、まだ僕に好意は持ってくれているようで――
「お母様に飽きたら、いつでも私を抱いてくれて良いですからね」
 冗談半分本気半分で、そんなことを時々口にする。
 もしかしたら本当に、嫌気が差すときが来てしまうのかもしれない。
 でも、それでも。
「ほら、あなたも服を脱いで」
「はい、ご主人様」
 今しばらくは、このままこのお屋敷に仕えていようと、そう思っている。