サイドA

 彼女はフリーのカメラマンをやっている。細々と撮影の仕事をこなしながら、細々と暮らしている。
 正直、肩書きがカメラマンであるという程度で、撮影技術に定評があるわけでもなく、写真展に出展したところで、高い評価を得られたことはまだ一度もない。
 写真を撮るのは好きだ。だからこの仕事を辞めようと思ったことはない。しかしこうまで誰からも評価されないと、さすがにカメラマンとしての自信はなくなってくる。
 構図の取り方が悪いのか、ホワイトバランスの取り方が下手なのか、カメラ選びがダメなのか。考え出せばキリがない。
 写真を撮る。世に出す。落ち込む。
 基本的にこの繰り返しだ。
 この調子で落ち込み続けたら、いずれシャッターを切ろうという気力が涸れてしまうのではないかと言いたくもなるが、彼女なりに、何とかそうならないように工夫はしている。
 彼女は落ち込んだ時、ノートを持って外に行く。
 何を書こうかなんてことは、家を出る前は全く考えていない。ただ散歩のついでに、思いついた詩や文章をノートに綴るだけだ。そうやって指の赴くままに文章を綴っているうちに、自然と心が落ち着いてくるのを、彼女は自分で理解している。
 今日もその調子で、ノート片手に外に出た。
 天気は良好。
 近所の河原に来た。橋の上で立ち止まり、欄干に寄り掛かる。ふと耳慣れないフレーズが自分でも思い浮かんだので、彼女はさっそくノートにそれを書き留めた。
 今日は筆の走りが早い。たまにはこういう日もある。
 夢中で文章を書き連ねていると、ふと近くで、シャッター音がした。
 彼女はノートから目を離し、音のした方を見た。
 一人の男性と目が合った。彼の手には一台のカメラ。どうやら彼女のことを写真に収めたらしい。
 数秒見つめ合った後、彼女が笑顔を浮かべて会釈した。彼も会釈を返してくれた。
「カメラマンの方ですか?」
 彼女はそう尋ねた。彼は、いえ、と首を振った。
「趣味……というほどのものでもないのですが、気分転換したい時に、こうしてカメラを持って外を歩くんです」
「そうなんですか」
 写真を撮って気分転換できるなんてうらやましい、と彼女は思った。彼女の場合は、撮れば撮るほど気持ちが沈む。正反対だ。
「……楽しいですか?」
 思わずそんな質問が口をついて出た。
「え……?」
「写真を撮るのは、楽しいですか?」
 彼女はじっと彼を見つめた。彼がどんな答えを言うのか、興味があった。
 彼はしばし考え――
「……楽しいですよ」
 そう答えた。
「目的もなく外に出て、周囲にある何気ない景色を写真に収める。すると、時々、思いがけない一枚が撮れたりするんです。いつでも撮れるわけじゃない。いつ撮れるかも分からない。でもその瞬間を期待するのは、楽しいことですよ。まあそうは言っても、僕の腕で撮れる写真なんてたかが知れてますけどね」
「そう……ですか」
 自分も最初は、そうだったはずだ。純粋に写真を撮るのが楽しい。良い写真が撮れた時は嬉しい。ファインダーを覗くだけで世界が色めく。
 でも、いつしかそんな感情は忘れてしまっていた。
 写真を撮るのが好き。その気持ちは今でも変わっていない。でも、楽しいという気持ちは、どこかに置いてきてしまっていた気がする。
 彼の一言は、その忘れ物を見つけてくれたようだ。
「ありがとうございます」
 家に帰ったらカメラを持ってまた外に出てみようかな、と彼女は思った。


サイドB

 彼は作家をやっている。細々と執筆活動をしながら、細々と暮らしている。
 正直、肩書きが作家であるという程度で、出す本はたいして売れないし、知名度もないに等しい。当然、文学賞にはかすりもしない。
 文章を書くことは好きだ。だからこの道を辞めようと思ったことはない。しかし、こうまで誰からも評価されないと、さすがに作家としての自信はなくなってくる。
 設定が悪いのか、表現力が足りないのか、文章力が低いのか、登場人物に魅力がないのか。考え出せばキリがない。
 作品を書き上げる、世に出す、落ち込む。
 基本的にこの繰り返しだ。
 この調子で落ち込み続けたら、いずれ作品を書こうという気力が涸れてしまうのではないかと言いたくもなるが、彼なりに、何とかそうならないように工夫はしている。
 彼は落ち込んだ時、カメラを持って外に行く。
 何を撮ろうかなんてことは、家を出る前は全く考えていない。ただ散歩のついでに、目についた周囲の景色を写真に収めるだけだ。そうやって何枚も写真を撮るうちに、自然と心が落ち着いてくるのを、彼は自分で理解している。
 今日もその調子で、カメラ片手に外に出た。
 天気は良好。
 近所の河原に来た。立ち止まり、適当にカメラのシャッターを押す。
 ふと、近くの橋に目をやった。欄干に寄り掛かって、ノートに何かを書き込んでいる女性が立っている。
 美人――確かに美人なのは間違いないが、もっと別の理由で、彼は彼女に目を留めた。
 無意識に彼はその女性にピントを合わせて、シャッターを切った。
 音が聞こえたのか、彼女がノートから目を離し、こちらに振り返った。
 さすがに失礼だったかな、と彼は思ったが、予想に反して彼女が笑顔を浮かべて会釈をしてきたので、彼も会釈を返した。
「カメラマンの方ですか?」
 彼女に尋ねられ、いえ、と彼は首を振った。
 気分転換にカメラを持って散歩することを彼女に話した。写真を撮るのは楽しいかと問われたので、楽しいと答えたら、彼女にお礼を言われた。どうしてお礼を言われたのか、彼には分からなかった。
「あなたは、物書きなんですか?」
 今度は彼から質問した。先ほどの彼同様に、いえ、と彼女は答えた。
「これはただの息抜きというか……あなたと同じですね」
 照れたように、彼女が笑った。
「気分転換したい時に、ノートを持って外に出るんです。そして何でも良いから思いついた詩とか短編小説みたいなものを、書き留めるんですよ」
「へえ……そうなんですか」
 彼女の表情はとても穏やかだった。文章を書くことで心が落ち着くというのは、今の彼にはないものだった。少し彼女をうらやましく思った。
「それって、楽しいですか?」
 思わず、そんな質問が口をついて出た。
「え?」
 彼女の表情が止まる。
「文章を書くのって、楽しいですか?」
「あ、ええ……楽しいですよ」
 少しの沈黙の後、彼女はそう答えた。
「あなたの場合と同じで、私も、散歩に出ればいつでも詩や短文が思いつくわけではありません。でも時々、自分でも思いがけない一文が書けることがあるんですよ。私は大して文章力があるわけでもないですから、表現豊かな文なんて書けませんけど、でも自分で読み返しても微笑ましく思えるような文に胸をときめかせるのは、楽しいです」
「なるほど……」
 忘れていた何かを、思い出した気分だった。
 自分も最初は、そうだったはずだ。純粋に文章を書くのが楽しい。自分でも納得のいく表現ができたときは嬉しい。紙が文字で埋まっていくだけで心が躍る。
 でも、いつしかそんな感情は忘れてしまっていた。
 文章を書くのが好き。その気持ちは今でも変わっていない。でも、楽しいという気持ちは、どこかに置いてきてしまっていた気がする。
 彼女の一言は、その忘れ物を見つけてくれたようだ。
「ありがとうございます」
 家に帰ったら短編小説でも一本書こうかな、と彼は思った。