「なあ、この前貸した十万円、返してくれよ」
「ごめん! 本っ当にごめん! あとちょっとだけ待って!」
 小林は顔の前で両手を合わせて、何度も田中に頭を下げた。
「それ言うの何度目だよ……」
 田中が冷めた視線を小林に送る。しかしそれも仕方のないこと。すぐに返すと言われて貸した十万円が、半年経っても返って来ないのだから。しかもその間、三日後に返すからとか一週間後に返すと言ったセリフを何度聞いたことか。呆れるのも無理はない。
 田中は別に、すぐに返って来ないことを怒っているわけではない。確かになかなか返って来ないことに対して全く困っていないわけではないが、それよりも小林が数日後に返すと自分から言っておきながら何度もずるずると返済を延ばしていることに呆れを覚えているのだ。
「今度は本当なんだ。近々まとまったお金が入るから、そしたら絶対に返す。約束するよ」
「本当だろうなぁ……そろそろ返してもらわないと、俺も困るんだよ」
「今度こそはほんとにほんとだ」
「まあ、そこまで言うなら……」
「今度の土曜で良いか?」
「分かった」
 すまねえ、と何度も謝って小林は走り去って行った。小林が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、田中も回れ右をして帰路に着いた。

「……ということだからさ、今度の土曜までに何とか頼むよ」
「土曜ねえ……まあ、何とかならなくはないけど」
「本当か!?」
 加藤の返答に小林は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「こないだ、車にぶつけられたって話はしたよね?」
「ああ。その腕の怪我はそのときのものなんだろ?」
 小林が加藤の右腕を指差した。痛々しく包帯が巻かれている。
「怪我はそんなに大きなものじゃなかったから治療費やら何やらで慰謝料が十万ってことで示談になったんだ。その十万が入ったら、そっくりそのまま小林に渡すよ。それで良いかい?」
「ああ、全然オッケーだ。でも何か悪い気がするな。慰謝料をそのまま俺が受け取るっていうのも」
「いや、先に小林に金を借りたのは僕だし、どんな形であれ僕のところに入った金で小林に返すことになるんだから、それが慰謝料だろうと給料だろうと一緒さ」
「で、どうなんだ? そろそろ完成なんじゃないのか、あれ?」
「そうだね。もう少しってところかな。小林には感謝してるよ。おかげで滞りなく資金も集められたからね」
「あれの完成は俺も見たいしな。それくらいは何でもないさ」
「そのお友達の人にも感謝しないとね」
「全くだ」
 例のあれを造るにあたり、加藤は自分の貯金だけでは足りず、何とか資金を集めたいと小林に相談を持ちかけてきた。それを受けた小林は自分の貯金も提供したのだが、どうしても十万円ほど足りず、やむなく友人の田中から十万円を借りて必要な金額を揃えた。半年経ってもその金を返せていないことをずっと小林は悔やんでいたが、この度、ようやく返すことができる。
「今度の土曜か……よし」
 加藤が携帯電話を手に取った。
「どうしたんだ?」
「いや、今から先方に連絡して、土曜に慰謝料を持ってきてもらうように頼もうと思って。小林も一緒に来てくれよ。そうすればその場ですぐに渡せるし」
「え……それは良いけど、でも相手の目の前でお前に払った慰謝料を俺が受け取るって、何か気まずくないか?」
「小林に渡すのは、その人と別れた後だよ。僕が先方からお金を受け取って、それから連絡を取り合って小林にお金を渡すってのも面倒だし」
「じゃあ、あいつも呼ぼう。お前の目の前であいつに金を渡すのは別に問題ないし」
 小林が田中から十万円を借りた事情を加藤は全て理解しているわけだし、むしろ加藤のために借りた十万円なのだから、いっそのこと加藤が受け取った金をそのまま田中に渡したって良いわけだ。
「なるほど、それは良いかもしれないね。じゃあ、駅前の喫茶店で待ち合わせにしよう」
 そう言って、加藤は携帯電話のボタンをプッシュし始めた。

 そして土曜日。時間は正午前。
 田中は小林から連絡を受けて、駅前の喫茶店に来た。
「よう、わざわざ呼び出して悪いな」
 小林はすでに来ていた。
「いや、ちょうど良かったよ」
 店内を一度見回してから、田中は小林の向かいに座ってコーヒーを注文した。
「今日は本当にちゃんと用意できたみたいだな」
「ああ、ずっと待たせちまって悪かったな」
「本当だよ、まったく……」
「でも悪いんだけど、もうちょっと待ってくれるか? 実は俺も人に十万を貸しててな。そいつから金を返してもらったら、その金をお前に渡すよ」
「何だ、お前も俺と同じような状況なのか?」
「ああ……というか、お前から十万を借りたのも、そいつに貸すためだったんだ。今トイレに行ってるから、戻ってきたら詳しい事情を話すよ」
「分かった」
 田中は、小林から金を貸してくれと頼まれたときに事情までは聞かなかった。必ず返すからと言っていたので、その言葉を信用して何も訊かずに貸したのだ。その実はどうやら友人のためだったらしい。
 ふと、小林の視線が田中の後ろに注がれた。
「お、戻って来た」
 田中も首だけ振り返って、小林の友人とやらの姿を見ようとした。
「……あれ?」
 向こうも同じことを思ったらしい。友人はすぐそばまで戻って来て、田中の顔を見るなり首を傾げた。
「もしかして、小林にお金を貸した友人って、あなたですか?」
 そうです、と田中が頷いた。
「じゃああなたが、小林から十万円を借りている人……?」
 そうです、と今度は加藤が頷いた。
「何だ、もしかして二人は知り合いとか?」
 小林が田中と加藤に交互に視線を走らせた。
「僕が慰謝料をもらう相手って、この人だよ」
 加藤が掌を上に向けて田中を指す。
「え? マジで?」
 小林の視線が田中に固定された。
「この前、車でこの人にぶつかっちまって……慰謝料は十万で大丈夫だって言うから、それなら小林から返してもらったお金で慰謝料を払おうと思ってたんだけど……」
 田中が加藤を見る。
「僕はその慰謝料を受け取って、それで小林に借りてた十万を返そうと……」
 加藤が小林を見る。
「で、俺はその受け取った十万を田中に返すつもりだった……」
 小林が再び田中を見た。
「その十万を受け取ったら、俺はこの人に慰謝料を」
「その慰謝料で、僕は小林への借金の返済を」
「その金で、俺は田中から借りた金を返そうと」
 しばし、三人は無言で互いを見つめ合い、やがて誰ともなく笑い出した。
 声には出さなかったが、きっと今同じことを考えているだろうな、と三人は互いに思っていた。