感情には、全部で何パターンあるのだろう。
 答えは簡単。
 無限だ。
 果てがないのだから、全部という単語を使うことすら不自然かもしれない。
 例えば、私は猫が好きだ。子猫を見ると可愛いという感情が湧く。
 小さい子供を見ても、可愛いという感情が湧くことがままある。あるいは、ファンシーショップなどで私の好みに合った小物を見つけたときにも、同じことが言える。
 しかし、これらは全て可愛いの一言で表される感情ではあるが、前述の三者の可愛いは別物だ。同じ可愛いという単語でも、対象によって中身は変わってくる。さらには、対象が同じであっても、人によって差異はまちまちだろう。私が子猫を見たときに感じる可愛いと、私以外の人が子猫を見たときに感じる可愛いは、やはり別物だ。
 もちろん、感情はこれ一つだけではない。嬉しい、楽しい、悲しい、苦しい、などなど、言葉に形容化されているだけでもたくさんの感情があるが、実際には言葉で言い表せない感情の方が圧倒的に多い。
 先の三パターンの場合だって、現存する単語の中で表現するなら可愛いという言葉が一番近いというだけのことであって、言うなれば近似的な表現だ。しかし近似的な表現であっても、口にしない限りは相手に自分の感情を伝えることが出来ない。近似的表現では、百パーセント正確に感情を相手に伝えることは不可能だが、それは仕方ない。言葉なんて元々そんなものだ。
 他にもっと、的確に感情を表現出来る単語が新たに生まれれば、この三つに対する感情を表現する言葉はそれぞれ違ったものになるだろうが、現存する単語だけでもある程度満足出来るくらいにコミュニケーションが取れている現状を考えると、そう簡単には生まれない気もする。
 人類は、長い年月をかけて文明も文化も発展させてきた。
 言葉も文化である以上、まだまだ進化の余地はある。しかし飽和状態に近付けば近付くほど、進化の速度は対数関数的に減少するのもまた事実であり、現在では言葉の進歩のスピードは、セカンドギアくらいに落ちている。
 昔は言葉が少なかったから、自分の意思をなるべく正しく相手に伝えるために、たくさんの新しい言葉を生み出していた。でも今日は、正確とはいかなくても、他に代用出来る言葉がいくらでもあるから、積極的に新しい言葉を生み出そうという姿勢は、弱まっていると思う。それは決して悪いことではないのだが、そこで発展を止めてしまったら、少なくとも誤解という言葉はなくならない。言葉の進歩が臨界点まで達したとしてもなくなるかどうかは分からないが、今のままでは絶対になくならないと断言出来る。
 かくいう私も、新しい言葉を作り出すことに積極的な姿勢は見せていないから、あまり人のことをとやかくは言えない。
 何か新しい言葉を作って、流行語大賞でも取ってみようかしら。