初めて出会った時、彼女は言葉を知らなかった。
 生まれ育った環境のせいだろう。彼女は生まれた時から僕と出会うまで、言葉に触れたことがなかったのだ。だから話すこともできないし、僕の言葉を理解することもできない。
 その代償なのか、彼女は言葉以外の音に対する感覚が優れていた。例えば、ノコギリで木を切る時に出るギコギコという音を聞くと、彼女はまるで自分の体が傷つけられているかのように、顔をしかめて身を縮める。言葉を知っている僕たちだって、ガラスに爪を立てて引っ掻いた時の音を聞くと不快になったりするけれど、あれが更に敏感になったとでも思えば良い。
 ついでに、彼女は耳が良い。常人では到底聞き取れないような音も、彼女の耳は感知する。感知して、喜怒哀楽に変換する。僕たちが普段使う言葉を理解できない分、彼女にとっては、それ以外の音が全て言葉になっているのだ。
 一度、彼女が何かに合わせてリズムを取っているように見えたことがあった。実際それはリズムを取っていたのだが、驚くなかれ、彼女は僕の心臓の音に合わせてリズムを取っていた。直接手を触れなくても、彼女には僕の胸の鼓動が聞こえていたのだ。
 僕はそんな彼女にとても惹かれた。彼女の存在価値をそれだけに求めるつもりはないけれど、でも彼女にはいつまでもその感覚を失ってほしくなかった。だから僕は彼女と一緒にいる時、極力しゃべることを止め、彼女が言葉を覚えないようにしていた。
 彼女とコミュニケーションを取りたければ、言葉を話すのではなく、音を発すれば良い。どんな音でも彼女は反応してくれる。怒ったり、切ない表情を浮かべたり、満面の笑みを浮かべたりしてくれる。僕は彼女のどの表情も好きだった。
 出会ってから二年が経った。未だに彼女は言葉をほとんど理解していない。そうなるように接してきたのだから当然なのだけど、今の僕はちょっと後悔していた。
 彼女に好きと伝えたいのだが、言葉で好きと言っても、彼女は何のことか分からない。思いきって給料三ヶ月分でもプレゼントしようかとも思ったが、それでも彼女には伝わらないだろう。彼女は物の価値もあまり知らない。今までにも何度かプレゼントをしたことはあったが、人工物よりもその辺に生えている花とか、河原に落ちている綺麗な石とかの方が彼女は喜んでいた。綺麗なものは好きなようだから、宝石なら喜んでくれるかもしれないけれど、たぶん、僕がそれに込めている気持ちまでは理解できないと思う。
 だからと言って、好きという気持ちを音で表す方法も、よく分からない。口頭で「ドキドキ」と言ったところで、さすがの彼女も意味は分からないだろう。
 それでも、どうしても伝えたかった。そう思って、今日は朝からずっと彼女と一緒の時間を過ごしているのだけれど、良い方法が浮かばないまま、もうすぐ日が暮れようとしている。何となく、今日伝えるのが無理だったら、もう二度と伝えることはできないような気がしていた。
 僕が焦っている様子を感じ取ったのか、彼女が「どうしたの?」と言わんばかりの瞳で僕を見つめてきた。僕も見つめ返した。目力だけで気持ちが伝えられればどんなに楽か。残念ながら僕の目にはそれほどの力はない。
 彼女はとても綺麗な目をしている。見つめるだけでドキドキする。
 彼女の手が僕の頬に触れた。同時に花が咲いたような笑顔を浮かべる。その笑顔がまた魅力的で、僕は更にドキドキした。
 ふと、いつだったか、彼女が僕の心臓の鼓動に合わせてリズムを取っていたことを思い出した。
 もしかしたらという思いがよぎり、僕は彼女の手を取って、自分の心臓に当てた。
 僕の心臓は今、平常心を失っている。どうしても彼女に伝えたい気持ちが溜まりに溜まって、今にも暴れ出しそうなほどだ。
 この鼓動を聞いて、僕の思っていることを彼女が読み取ってくれれば――。
 次の瞬間、彼女の顔がぐっと僕の方に近づいた。
 唇が触れる。
 十秒か、二十秒か、もしかしたらそれは永遠だったのかもしれない。
 唇が離れた時、彼女は初めて見せる、照れたようなとても幼い表情を浮かべた。
 その表情を見て、僕も理解した。
 やはり、彼女に気持ちを伝えるには、言葉ではなく音だったか。