嗜好に関する思考

 私はコーヒーが好きだ。
 どんなことがあっても朝の一杯は欠かさない。私の生活にとって、絶対的になくてはならないもの、それがコーヒーである。
 もしも朝、一杯のコーヒーを飲むことがなかったら、その日一日、私の脳は活動を休止したままになるだろう。目が覚めていても脳が寝ているのでは、起きていないことと同じだ。コーヒーに比べたら、目覚まし時計など欠片の価値もない。アラーム音なんていうものは、パソコンの起動時や終了時に鳴る、あのプログラムイベントに対応したサウンドよりも必要ないものだ。
 先日、親しい友人からこんな質問をされた。
「なあ、無人島に何か一つだけ持って行くとしたら、何がいい?」
 この手の質問はよく聞くが、実際にこうして質問されるのは初めてだ。
 しかし、私の答えは決まっている。だから友人の質問にも即答した。
「コーヒー」
「ああ、お前、コーヒー大好きだもんな。でもそんなのでいいのか?」
「もちろんだよ。逆に言えば、コーヒー以外のものを持って行っても、何もできないよ」
 私にとってコーヒーとは生命力の源、活動のための起爆剤と言っても何ら差し支えない。したがって、コーヒー以外のものを持って行ったとしても、それを活用して無人島で生き抜こうとする活力が湧かないので、本末転倒である。
 しかし――冷静に考えると、今の答えはどうなのだろう。
 コーヒーを持って行くこと自体は問題ないとして、ここで言うコーヒーとは、どこまでを示すのだろうか。コーヒーを淹れるための道具一式を全て含んでいいのだろうか。しかしそれでは、一つとは言えない。
 では、コーヒーと答えた場合は、コーヒーの素となるコーヒー豆のみを持って行くことになってしまうのだろうか。
 それでは何にもならない。いくらコーヒーが好きだからと言って、豆だけをせっせと口から入力しても、さすがに脳内から満足という言葉は出力されないだろう。
 カップに注ぐときに聞こえる心地よいサウンド、スプーンで一回ししたときに見える銀河のようなあの波紋、そして私の中から一切の無駄な思考を取り除き深い幻想の世界へといざなってくれる燻った湯気。それらが全て揃ってこそのコーヒーだ。豆だけあっても仕方ない。
 しかしそうなると、困ったことになる。
 豆を挽く道具も、お湯を沸かす道具も、銀河を形成するためのスプーンも、何も持って行くことができない。そして何より、出来上がったコーヒーを飲むためのカップを持って行くことができないではないか。
 結局、無人島に行ったら私は何もできないということだ。
 できれば生涯行きたくないものだ、無人島には。

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