自由への飛翔

 屋上で吸う煙草は格別だ。
 この昼休みに屋上で味わう一服が、何ともたまらない。
 私が一日の中で、一番冴えている瞬間だ。どんな哲学的なことにでも、どんなくだらないことにでも、最大限の思考力を発揮することができる。
 今日はどんなことを考えようか。せっかくなんだ。極上のサブジェクトが良い。

 人は生まれながらにして平等である。
 誰が言った言葉だったかな。思い出せない。
 しかし、果たして本当に人はみんな平等なのか。
 私は、基本的にはそうは思わない。残念ながら、人は平等ではない。
 ただし、一点においてのみ、私はこの言葉を正しいと認識している。
 それは、不自由であること。
 人はみんな、生まれながらにして不自由だ。必ず何かに縛られている。例外はないと言ってもいい。だからこの点においては、人はみんな平等だ。
 ここで言う不自由とは、百パーセント自由じゃない場合全てを指す。ついでに言うと、この不自由とは、決して悪い意味を持つ場合のみではない。
 我々はみんな、法律の下で生活している。法を犯せば罰せられる。これだって立派に自由を奪われている。しかし法律がなくなり、やることなすことに一切の完全なる自由が認められれば、この国は破滅するだろう。めんどくさい法律もたくさんあるが、それでも法律に縛られていないと、我々は大変なことになる。
 この不自由は、決してマイナスの意味を持つ不自由ではない。もう少し言えば、法律を守ればある程度の自由は認められているとも考えられる。
 不自由な自由、とでも言うべきだろうか。
 そもそも、人は生まれる前から自由ではない。
 まず、自分で親を選べない。
 これが悪いことだとは言わないが、とにかく人は自分の意思で親を選び、自分の意思で生まれてくるわけではない。生命の誕生は受動的なものだ。
 だが、人は生まれながらにして不自由であるが、完全なる自由を獲得できないわけではない。一般的にこれは良いことではないが、方法はある。
 私は今から、それを実行するつもりだ。

 ――極上のサブジェクトとは言えないが、最期には相応しいだろう。
 私は煙草をもみ消し、屋上から投げ捨てた。風の横槍を受けながら、煙草はどんどん落下していく。どこに落ちたのかは見えなかった。
 さあ、次は、私の番だ――。

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