悠久の放浪者

 僕は――僕たちは、孤独な旅人だと言える。
 僕たちは群れを成さない。自由奔放と言うか、みんながみんな、自分の思い思いに行動している。僕たちが孤独である所以だ。
 とは言え、群れなければならないような取り決めは存在しないし、群れで行動したいと思っている奴もいないから、孤独であることには誰も異議を唱えない。
 もちろん僕も、異議を唱えたこともなければ、不満に思ったこともない。
 旅人と言うのは、適当じゃないかもしれない。
 旅とは本来、ある一定期間、他の地域へと出かけることを意味する。他の地に留まり、一定期間が過ぎたら、また元の場所に戻ってきて、そこに留まることになる。
 僕たちは、他の地に留まることはしない。そして、元の場所に戻ってくることはあっても、やはりそこに留まることをしない。二度と戻ってこない奴も、中にはいる。
 僕たちには、放浪者の方が合っているかもしれない。
 目的地もなく、誰に逆らうこともなく、ただ時の流れゆくままに、さすらう。一箇所に留まることをしないのだから、こちらの方がきっと適当だろう。
 僕たちは、時間の許す限り、いつまでも放浪し続ける。時が、自身を止める方法を知らないように、僕たちもまた、放浪することを止める術を知らない。
 僕たちは、何のために放浪しているのだろうか。
 誰かに見られるためじゃない。見つかることはあるけれど、別に見つけて欲しくてさまよい続けているわけじゃない。SOS信号を発しているわけでもないし、一生見つからなかったとしても、僕たちからすれば、不都合はない。
 一度見つかったとしても、いずれ忘れ去られてしまう奴もいる。元の場所に帰ってくる保障がないのだから、これは仕方ない。
 目的がない。目標もない。目指すゴールもなく、帰る場所もない。そんな僕たちだけれど、存在する意味は、ちゃんとある。
 それは、僕たちを見てくれる人がいることだ。
 僕たちは別に、見られることを望んでいない。僕たちの存在意義は、見られたいと思う能動的なものではなく、見たいと思う人がいる受動的なものだ。
 目的や意思は持っていなくても、僕たちから生み出される副産物が人々の心に一滴の聖水を与えられるのなら、僕たちの存在は、無駄にはならない。
 僕たちには感謝されて嬉しいという感情がないけれど、一人でも喜んでくれる人がいるのなら、放浪を続ける意味は、あると思う。
 今日もどこかで、僕たちからのプレゼントを喜んでくれる人が、いると良いな。

 少女は窓辺にたたずんで、今日もまた、じっと星空に目を凝らしていた。
「今日は流れ星、見えるかなぁ……」

夢と現実と境界線

闇を生きるもの

夢か現か