科学の教師である私がこんなことを言うのもなんだが、私は重さを量る道具が嫌いだ。体重計などはもちろんのこと、天秤も好かない。
重さ、という単語を辞書で調べると、大体こんなことが書いてある。
 物体に働く重力の大きさ――。
 もちろんこれは間違いではない。実際、物体そのものの重量は質量であって重さではない。だから重力が地球の六分の一しかない月に行けば、質量はそのままだが重さは六分の一になる。例えば、人の体重とか。
 そのこと自体に、別段不満はない。私は月に行ったことがないから本当にそうなのかを自分で確かめたわけではないけれども、人類がこれまで行ってきた科学的な検証を全否定するほどやさぐれてもいない。
 私が気に入らないのは、重さを量る道具はたいして重さを量る役割を果たしていないという点だ。
 例えば、人の気持ちがそうだ。思いや心にも、重さという単語が使われる。それは決して重力に縛られるものではない。場の空気や雰囲気にも、重さはある。
 しかしこれらは、どの重量測定機器を用いても量ることができない。
 例えば、場の空気が重くなったからと言って、急に天秤の針が傾いたりすることはない。その場の空気が重くなろうが軽くなろうが、天秤は現状維持だ。目には見えないが、天秤の上に常に空気は乗っているはずなのに。
 では目に見える物体なら必ず正確な重さを量れるのかと言ったら、実はこれもノーだ。
 例えば、手紙。
 手紙には、書いた人の思いが込められている。同じ人が書いた場合でも、いつ、どこで、誰に、何の目的で書くかによってその重さは変わってくる。だから本来なら手紙によって重さは違うはずなのに、いつ、どこで、誰が書いても、重量計が指し示す紙の重さはいつでも一緒だ。紙にもよるが、A4一枚でおよそ5グラム。そこに書いた人の気持ちはプランク定数ほども含まれていない。
 これは、気持ちや雰囲気という抽象的なものに対して重さという言葉を当て嵌めてしまったことが間違いなのかもしれないが、いずれにしても、私は重さを量る機器はたいして役に立たないものだと思っている。
 自分の体重なんかより、人の気持ちの重さの方が何百倍も大事だ。
 人から手紙をもらったとき、この手紙にはどれほどの思いが込められているのかを知ることは大切だが、その手紙本体の重さや、使われたインクの量、そしてそのインクの量を重さに換算するといくらなのかは、まったくもってどうでもいい。
 だから私の家には、重さを量る道具は一切ない。
 無論、大学にある私の研究室にもそんなものは置いていない。
 人の心を研究するのに、重さを量る道具など必要ないのだ。