この世の果ての穴の中
長旅を終えて数十年ぶりに帰って来た地球は、より一層の静寂に包まれていた。
もっとも地球では数十年経っているが、私の主観では数日しか経過していない。今じゃ誰でも気軽に浦島太郎になれるのだ。
肉体に意識が戻る。冷凍睡眠が解けてカプセルが開き、私は半身を起こして肉眼で周囲を見渡した。
三百六十度、カプセルだらけ。数十年前よりもかなり数が増えている。利用者が増加し続けている証拠だ。
「お帰りなさいませ。長旅お疲れ様でした」
案内係のスタッフに手を引かれてカプセルから出る。数十年も肉体を眠らせたままにしておくと、すぐには思うように体が動かない。だからカプセルから出て最初は、スタッフに手伝ってもらって軽く体を動かす決まりになっている。
「ありがとう。もう大丈夫だ」
体が解れたところでカプセルルームを出て、最上階にあるダイニングバーへ。
「あれ、先輩?」
「おお! 先輩も今日帰って来たんですか。奇遇ですね」
「わあ、お久しぶりですー」
先客が三人もいた。大変に珍しい。しかしもっと珍しいのは、全員が見知った後輩であること。知り合いが四人も一箇所に揃うなんて、天文学的な確率である。
「こっちで一緒に飲みましょうよ」
誰もいないカウンターに向かって酒を注文し、誘われるままに彼らの元へ。
再会の挨拶を済ませている間に、頼んだ酒がトレイに載って流れて来た。
「それじゃ、乾杯」
肉体的には数十年ぶりの酒。美味くも不味くもない。酒にしろ料理にしろ、人の手で作られることがなくなってしまったので、世界中の何処で飲み食いしても味は一緒である。
「みんなは、今回はどこへ行ってたのかな?」
「俺は近場っす。土星や天王星の衛星を調査してました」
「僕は太陽系の周辺で新しい惑星を一つ見つけました」
「私はベガまで行ってきましたよー」
先ほどまで私が入っていたカプセルには、肉体を冷凍保存し、肉体と意識を切り離す機能が備わっている。幽霊がオカルトだと思われていた頃には幽体離脱とも呼ばれていた行為だ。意識だけの状態であれば、宇宙船で何百年も掛かってしまう場所へもすぐに行ける。それを利用して宇宙のあちこちに探査やら観光に行くのだ。
「新しい惑星って、どんなのだった?」
「うーん、あまり面白みはなかったかなぁ」
「生物はいたのか?」
「あの星の環境じゃ無理ですね」
「ベガはどうだったんだ?」
「相変わらずよく回ってました。さすがは織姫さん。10.0のスピンは健在ですねー」
「織姫って誰っすか?」
「七夕っていう行事について調べてみると良い。大昔の風習だよ」
アルコールも手伝って、土産話に花が咲き始める。肉体と意識が離れている間は他人とコミュニケーションが取れないから、生身での会話は貴重なのだ。もっとも我々のように惑星探査員でもやっていなければ、惑星談義は難しい。浦島太郎にはなれても花咲か爺さんにはなれないのだ。
意識だけの状態は、睡眠時に夢を見ている感覚に近い。つまり意識が肉体に戻るのは、夢から覚めるようなもの。記憶が秒速で薄れて行く。惑星探査員は記憶が劣化しない特殊なチップを脳に埋め込んでいるから、夢の内容をいつでも細大漏らさず話せるのだ。
窓の外へと視線を向ける。
「すっかり人を見かけなくなっちまいましたね」
隣の席の後輩が同じように外を見て呟いた。
「前にここで飲んだ時は、少ないながらも車の走る姿とか見えましたが」
確かに人っ子一人見当たらない。乗り物も歩行者も皆無。周辺の建物も人の出入りが全くない。中には大勢の人間がいるのに。
「もはや全人口の九十九パーセント以上は、カプセルの中っすね」
以前は――と言っても何百年も昔だが――カプセルを利用できるのは惑星探査員だけの特権だった。だから希望者が後を絶たなかった。でも今では誰でも安価にカプセルを利用できる。わざわざ難しい試験を突破して探査員にならなくても簡単に太陽系外へ飛び出せる。探査目的ではなく、ただの観光として。
その結果がこの有様だ。今この瞬間に地球上で私たちのように酒を飲んでいる人間は、果たしてどれだけいるだろうか。数十人――いや、もっと少ないかもしれない。
安価で宇宙旅行を楽しめるようになってから、人々は惑星探査員になるどころか、定職につくこと自体を止めてしまった。かつて正社員と呼ばれていた雇用形態はもう存在しない。唯一の例外が惑星探査員。人間がやっていた作業のほとんどを今は機械が担当しているから、働かなくても誰も困りはしないのだ。
適当に日雇いで金を稼ぎ、ある程度貯まったら、数十年、数百年の長い眠りにつく。その繰り返し。カプセルの中にいる間は肉体が老いることもないし、衣食住の心配も一切しなくて良い。それもまた、利用者の増加に拍車を掛けている要因だ。
空へと視線を向ける。人工的な明かりがない分、星明かりの美しさが目立つ。多くの人が今もなお、この星々のどこかにいる。姿は見えないが。
私はこれまでに何百という星を訪れたが、それだって今ここから見える星々のほんの一部でしかない。宇宙は知れば知るほど未知の部分が増えて行く。どれだけ時間を費やしても、宇宙の全てを知り尽くすことは人類には不可能なのだろう。
それでも人は知ることを止められないのだ。
「君たちは、またすぐに次の探査に向かうのかい?」
「俺っちは海王星っすね」
「僕も次は太陽系内です」
「私はうーんと遠くまで行きますよー。二百年くらい帰って来られないですねー」
三人とも来週にはまた地球を離れるようだ。
「先輩は?」
「私は……次は棺桶に入る予定だ」
みんなの表情が曇る。せっかくの貴重な飲み会を湿っぽい空気にしてしまった。だが嘘を吐いても仕方ない。
「え……マジっすか?」
「ああ。最初からそう決めていたんだ。探査は今回が最後だと」
「そうなんですか……寂しくなりますね」
「でもそういうことなら、今日会えて嬉しかったですよ。お別れの挨拶が出来ますし」
「私もだよ。誰にも会わずに逝くことになるだろうと思っていたから、君たちに会えて、こうして一緒に酒が飲めて良かった」
カプセルには二種類ある。
一つは冷凍保存カプセル。そしてもう一つは、非冷凍保存カプセルだ。
名前の通り、非冷凍保存カプセルは肉体が冷凍保存されない。意識を切り離す機能だけがついている。
冷凍保存カプセルとは大きく用途が異なる。非冷凍保存カプセルは意識が再び肉体に戻って来ることを想定しない。意識を切り離してから一定時間が経過すると肉体ごと破棄される。棺桶と呼ばれる所以だ。一切の苦痛を伴わず壮大な宇宙で最期を迎えることができる為か、安楽死カプセルと呼ぶ者もいるそうだ。
「よし! じゃあ今夜はとことん飲みましょう!」
「ああ、そうだな」
最後の晩餐だ、と言いかけたが、喉元までで止めておいた。
あっと言う間に半月が過ぎ、私は再びカプセルセンターを訪れた。
「非冷凍保存カプセルのご利用で宜しいのですね?」
「ああ」
先日の案内係とは別のスタッフ。この人もまた昨日今日の日雇いだろう。明日にはいないかもしれない。先日のスタッフだってもう辞めてしまっただろう。地球にいるかどうかも疑わしい。
「本当に、よろしいのですか?」
「良いんだ。もう身辺整理も済ませた」
「かしこまりました。では準備を致しますので、しばしお待ち下さい」
カプセルの準備ができる間、私は施設内を歩いて回った。どこもかしこも寝そべったカプセルが並んでいるだけ。人々の息遣いが全く聞こえてこない。殺風景という言葉すら霞んで見える。でもこれで見納めかと思うと感慨深い。
ダイニングバーも覗いてみたが誰もいなかった。こっちの方が通常運転だ。先日会った後輩たちも今はカプセルの中か。
一時間ほど掛けて施設を一周し、待合室に戻ってくる。
「お待たせしました。準備が整いましたので、こちらへ」
スタッフの案内で、非冷凍保存カプセルのある部屋へ。
「もう一度だけ確認します。本当に、よろしいのですね?」
非冷凍保存カプセルに入るということは、自分は今から人生の幕を引きますと宣言しているようなもの。やり直しがきかないから何度も確認される。
しかし何度訊かれても私の答えは変わらない。
「ああ、大丈夫だ」
「……では、中へどうぞ」
カプセルの中に体を横たえた。蓋が閉じられると催眠を誘導するガスが発生し、意識が切り離される。冷凍保存カプセルなら、直後に肉体の冷凍が始まる。
「蓋を閉めますよ」
「ああ、頼む」
「良い旅を。それと……さようなら」
「ありがとう。さようなら」
良い旅を、は毎回言われる言葉だが、さようならと言われるのは初めてだった。
蓋が閉じられた数分後には視界に宇宙が広がっていた。いつものように意識の切り離しが問題なく行われた証拠だ。
さてどこに行こうか――などと考える必要はない。行き先はもう決めてある。
探査にしろ観光にしろ、基本的に行動の制限はない。誰でもどこでも好きに行くことが許されている。
だが一つだけ例外がある。
ブラックホール。
意識だけの状態であれば、空気のない惑星だろうが絶対零度に近い空間だろうが、太陽の中に飛び込もうが大丈夫なのは実証されている。でもあの全てを吸い込んでしまう漆黒の洞穴にだけは未だに近づくことが許可されていない。一番近いところでさえ地球から数千光年ほど離れているから、無事でいられるかどうかの調査がまだ済んでいないのだ。
昔からずっと行ってみたいと思っていた。いっそのこと規則も命令も無視して調査に行ってしまおうかと思ったことも、一度や二度ではない。妻が存命だった頃、そんな愚痴を零したことがあった。気持ちは分かる、とあの時の妻は笑っていた。同じことを考えている人は私以外にも大勢いるだろう。
妻も百年ほど前に棺桶に入った。原因不明の難病で苦しむ姿を見ていられなかった私は彼女の決断を止められなかった。彼女は最期をどこで迎えたのだろう。
しばらく地球を眺めた後、私は見えない光となってその場を離れた。
移動中は一秒と永遠が等しくなる。余計な考え事をする間もなく目的地に到着した。
こんなに間近でブラックホールを拝むのは初めてだ。拝むと言っても、世界がそこだけ切り取られてしまったかのように何も見えない。何も見えないのに、迫力だけは凄まじいものを感じる。調査のしがいはありそうだが、それは私の役目ではない。
地球では私が飛び立ってから数千年経っている。もしかしたら誰かが無事に調査を終えて帰還し、ブラックホールへの旅行も解禁になっているかもしれない。
ためらうことなく私は穴の中へ飛び込んだ。
どんどん奥へ進んでいるような気はするのだが、何も見えないのであまり実感が沸かない。このままずっと代わり映えしないのか。この世で最大の謎とも言える場所は、この世で最もシンプルな空間なのかもしれない。
そんなことを思い始めた矢先だった。
奥へ進む感覚はなくならない。何も見えないのも一緒。でもそれだけじゃない。確かに別の感覚がここには存在している。
正体が何なのか、見えなくとも私には分かった。
最期の旅を、最後の謎で締め括る。みんな考えることは一緒だったようだ。
それもそうだ。未だ宇宙には星の数ほどの謎が眠っているけれど、その一番奥にあるとも言うべき場所に興味が沸かないはずはないのだ。
妻もここにいるに違いない。見ることは叶わないが、そんな確信があった。
かつて人々は、天国や地獄がどんなところか、そこには誰がいて、自分たちはどんな扱いを受けるのか、あれこれと想像を巡らせていた。
その答えを知ることはできないが、今はここがそうなのかもしれない。
この世の果てと言っても過言ではない、無限に広がる暗闇の最深部が、今の我々にとってはあの世と呼ぶべき場所なのかもしれない。
ならば私も、妻や他のみんなと一緒に、今後やって来るであろう人たちと一緒に、深海よりも暗くて静かな、この時間の止まった場所で、永遠の向こう側に行くとしよう。
もっとも地球では数十年経っているが、私の主観では数日しか経過していない。今じゃ誰でも気軽に浦島太郎になれるのだ。
肉体に意識が戻る。冷凍睡眠が解けてカプセルが開き、私は半身を起こして肉眼で周囲を見渡した。
三百六十度、カプセルだらけ。数十年前よりもかなり数が増えている。利用者が増加し続けている証拠だ。
「お帰りなさいませ。長旅お疲れ様でした」
案内係のスタッフに手を引かれてカプセルから出る。数十年も肉体を眠らせたままにしておくと、すぐには思うように体が動かない。だからカプセルから出て最初は、スタッフに手伝ってもらって軽く体を動かす決まりになっている。
「ありがとう。もう大丈夫だ」
体が解れたところでカプセルルームを出て、最上階にあるダイニングバーへ。
「あれ、先輩?」
「おお! 先輩も今日帰って来たんですか。奇遇ですね」
「わあ、お久しぶりですー」
先客が三人もいた。大変に珍しい。しかしもっと珍しいのは、全員が見知った後輩であること。知り合いが四人も一箇所に揃うなんて、天文学的な確率である。
「こっちで一緒に飲みましょうよ」
誰もいないカウンターに向かって酒を注文し、誘われるままに彼らの元へ。
再会の挨拶を済ませている間に、頼んだ酒がトレイに載って流れて来た。
「それじゃ、乾杯」
肉体的には数十年ぶりの酒。美味くも不味くもない。酒にしろ料理にしろ、人の手で作られることがなくなってしまったので、世界中の何処で飲み食いしても味は一緒である。
「みんなは、今回はどこへ行ってたのかな?」
「俺は近場っす。土星や天王星の衛星を調査してました」
「僕は太陽系の周辺で新しい惑星を一つ見つけました」
「私はベガまで行ってきましたよー」
先ほどまで私が入っていたカプセルには、肉体を冷凍保存し、肉体と意識を切り離す機能が備わっている。幽霊がオカルトだと思われていた頃には幽体離脱とも呼ばれていた行為だ。意識だけの状態であれば、宇宙船で何百年も掛かってしまう場所へもすぐに行ける。それを利用して宇宙のあちこちに探査やら観光に行くのだ。
「新しい惑星って、どんなのだった?」
「うーん、あまり面白みはなかったかなぁ」
「生物はいたのか?」
「あの星の環境じゃ無理ですね」
「ベガはどうだったんだ?」
「相変わらずよく回ってました。さすがは織姫さん。10.0のスピンは健在ですねー」
「織姫って誰っすか?」
「七夕っていう行事について調べてみると良い。大昔の風習だよ」
アルコールも手伝って、土産話に花が咲き始める。肉体と意識が離れている間は他人とコミュニケーションが取れないから、生身での会話は貴重なのだ。もっとも我々のように惑星探査員でもやっていなければ、惑星談義は難しい。浦島太郎にはなれても花咲か爺さんにはなれないのだ。
意識だけの状態は、睡眠時に夢を見ている感覚に近い。つまり意識が肉体に戻るのは、夢から覚めるようなもの。記憶が秒速で薄れて行く。惑星探査員は記憶が劣化しない特殊なチップを脳に埋め込んでいるから、夢の内容をいつでも細大漏らさず話せるのだ。
窓の外へと視線を向ける。
「すっかり人を見かけなくなっちまいましたね」
隣の席の後輩が同じように外を見て呟いた。
「前にここで飲んだ時は、少ないながらも車の走る姿とか見えましたが」
確かに人っ子一人見当たらない。乗り物も歩行者も皆無。周辺の建物も人の出入りが全くない。中には大勢の人間がいるのに。
「もはや全人口の九十九パーセント以上は、カプセルの中っすね」
以前は――と言っても何百年も昔だが――カプセルを利用できるのは惑星探査員だけの特権だった。だから希望者が後を絶たなかった。でも今では誰でも安価にカプセルを利用できる。わざわざ難しい試験を突破して探査員にならなくても簡単に太陽系外へ飛び出せる。探査目的ではなく、ただの観光として。
その結果がこの有様だ。今この瞬間に地球上で私たちのように酒を飲んでいる人間は、果たしてどれだけいるだろうか。数十人――いや、もっと少ないかもしれない。
安価で宇宙旅行を楽しめるようになってから、人々は惑星探査員になるどころか、定職につくこと自体を止めてしまった。かつて正社員と呼ばれていた雇用形態はもう存在しない。唯一の例外が惑星探査員。人間がやっていた作業のほとんどを今は機械が担当しているから、働かなくても誰も困りはしないのだ。
適当に日雇いで金を稼ぎ、ある程度貯まったら、数十年、数百年の長い眠りにつく。その繰り返し。カプセルの中にいる間は肉体が老いることもないし、衣食住の心配も一切しなくて良い。それもまた、利用者の増加に拍車を掛けている要因だ。
空へと視線を向ける。人工的な明かりがない分、星明かりの美しさが目立つ。多くの人が今もなお、この星々のどこかにいる。姿は見えないが。
私はこれまでに何百という星を訪れたが、それだって今ここから見える星々のほんの一部でしかない。宇宙は知れば知るほど未知の部分が増えて行く。どれだけ時間を費やしても、宇宙の全てを知り尽くすことは人類には不可能なのだろう。
それでも人は知ることを止められないのだ。
「君たちは、またすぐに次の探査に向かうのかい?」
「俺っちは海王星っすね」
「僕も次は太陽系内です」
「私はうーんと遠くまで行きますよー。二百年くらい帰って来られないですねー」
三人とも来週にはまた地球を離れるようだ。
「先輩は?」
「私は……次は棺桶に入る予定だ」
みんなの表情が曇る。せっかくの貴重な飲み会を湿っぽい空気にしてしまった。だが嘘を吐いても仕方ない。
「え……マジっすか?」
「ああ。最初からそう決めていたんだ。探査は今回が最後だと」
「そうなんですか……寂しくなりますね」
「でもそういうことなら、今日会えて嬉しかったですよ。お別れの挨拶が出来ますし」
「私もだよ。誰にも会わずに逝くことになるだろうと思っていたから、君たちに会えて、こうして一緒に酒が飲めて良かった」
カプセルには二種類ある。
一つは冷凍保存カプセル。そしてもう一つは、非冷凍保存カプセルだ。
名前の通り、非冷凍保存カプセルは肉体が冷凍保存されない。意識を切り離す機能だけがついている。
冷凍保存カプセルとは大きく用途が異なる。非冷凍保存カプセルは意識が再び肉体に戻って来ることを想定しない。意識を切り離してから一定時間が経過すると肉体ごと破棄される。棺桶と呼ばれる所以だ。一切の苦痛を伴わず壮大な宇宙で最期を迎えることができる為か、安楽死カプセルと呼ぶ者もいるそうだ。
「よし! じゃあ今夜はとことん飲みましょう!」
「ああ、そうだな」
最後の晩餐だ、と言いかけたが、喉元までで止めておいた。
あっと言う間に半月が過ぎ、私は再びカプセルセンターを訪れた。
「非冷凍保存カプセルのご利用で宜しいのですね?」
「ああ」
先日の案内係とは別のスタッフ。この人もまた昨日今日の日雇いだろう。明日にはいないかもしれない。先日のスタッフだってもう辞めてしまっただろう。地球にいるかどうかも疑わしい。
「本当に、よろしいのですか?」
「良いんだ。もう身辺整理も済ませた」
「かしこまりました。では準備を致しますので、しばしお待ち下さい」
カプセルの準備ができる間、私は施設内を歩いて回った。どこもかしこも寝そべったカプセルが並んでいるだけ。人々の息遣いが全く聞こえてこない。殺風景という言葉すら霞んで見える。でもこれで見納めかと思うと感慨深い。
ダイニングバーも覗いてみたが誰もいなかった。こっちの方が通常運転だ。先日会った後輩たちも今はカプセルの中か。
一時間ほど掛けて施設を一周し、待合室に戻ってくる。
「お待たせしました。準備が整いましたので、こちらへ」
スタッフの案内で、非冷凍保存カプセルのある部屋へ。
「もう一度だけ確認します。本当に、よろしいのですね?」
非冷凍保存カプセルに入るということは、自分は今から人生の幕を引きますと宣言しているようなもの。やり直しがきかないから何度も確認される。
しかし何度訊かれても私の答えは変わらない。
「ああ、大丈夫だ」
「……では、中へどうぞ」
カプセルの中に体を横たえた。蓋が閉じられると催眠を誘導するガスが発生し、意識が切り離される。冷凍保存カプセルなら、直後に肉体の冷凍が始まる。
「蓋を閉めますよ」
「ああ、頼む」
「良い旅を。それと……さようなら」
「ありがとう。さようなら」
良い旅を、は毎回言われる言葉だが、さようならと言われるのは初めてだった。
蓋が閉じられた数分後には視界に宇宙が広がっていた。いつものように意識の切り離しが問題なく行われた証拠だ。
さてどこに行こうか――などと考える必要はない。行き先はもう決めてある。
探査にしろ観光にしろ、基本的に行動の制限はない。誰でもどこでも好きに行くことが許されている。
だが一つだけ例外がある。
ブラックホール。
意識だけの状態であれば、空気のない惑星だろうが絶対零度に近い空間だろうが、太陽の中に飛び込もうが大丈夫なのは実証されている。でもあの全てを吸い込んでしまう漆黒の洞穴にだけは未だに近づくことが許可されていない。一番近いところでさえ地球から数千光年ほど離れているから、無事でいられるかどうかの調査がまだ済んでいないのだ。
昔からずっと行ってみたいと思っていた。いっそのこと規則も命令も無視して調査に行ってしまおうかと思ったことも、一度や二度ではない。妻が存命だった頃、そんな愚痴を零したことがあった。気持ちは分かる、とあの時の妻は笑っていた。同じことを考えている人は私以外にも大勢いるだろう。
妻も百年ほど前に棺桶に入った。原因不明の難病で苦しむ姿を見ていられなかった私は彼女の決断を止められなかった。彼女は最期をどこで迎えたのだろう。
しばらく地球を眺めた後、私は見えない光となってその場を離れた。
移動中は一秒と永遠が等しくなる。余計な考え事をする間もなく目的地に到着した。
こんなに間近でブラックホールを拝むのは初めてだ。拝むと言っても、世界がそこだけ切り取られてしまったかのように何も見えない。何も見えないのに、迫力だけは凄まじいものを感じる。調査のしがいはありそうだが、それは私の役目ではない。
地球では私が飛び立ってから数千年経っている。もしかしたら誰かが無事に調査を終えて帰還し、ブラックホールへの旅行も解禁になっているかもしれない。
ためらうことなく私は穴の中へ飛び込んだ。
どんどん奥へ進んでいるような気はするのだが、何も見えないのであまり実感が沸かない。このままずっと代わり映えしないのか。この世で最大の謎とも言える場所は、この世で最もシンプルな空間なのかもしれない。
そんなことを思い始めた矢先だった。
奥へ進む感覚はなくならない。何も見えないのも一緒。でもそれだけじゃない。確かに別の感覚がここには存在している。
正体が何なのか、見えなくとも私には分かった。
最期の旅を、最後の謎で締め括る。みんな考えることは一緒だったようだ。
それもそうだ。未だ宇宙には星の数ほどの謎が眠っているけれど、その一番奥にあるとも言うべき場所に興味が沸かないはずはないのだ。
妻もここにいるに違いない。見ることは叶わないが、そんな確信があった。
かつて人々は、天国や地獄がどんなところか、そこには誰がいて、自分たちはどんな扱いを受けるのか、あれこれと想像を巡らせていた。
その答えを知ることはできないが、今はここがそうなのかもしれない。
この世の果てと言っても過言ではない、無限に広がる暗闇の最深部が、今の我々にとってはあの世と呼ぶべき場所なのかもしれない。
ならば私も、妻や他のみんなと一緒に、今後やって来るであろう人たちと一緒に、深海よりも暗くて静かな、この時間の止まった場所で、永遠の向こう側に行くとしよう。