風が吹けば
今日は朝から風が強い。近年まれに見る強風だ。
気象庁によれば、平均風速は二十メートル近くあるそうだ。風力にすれば八から九、これは人家に被害が出始めるくらいの強さである。強風警報も発令され、なるべくなら外を歩き回らない方が良い。
当然ながら、外出している人は少ない。特に歩行者はほとんど見かけない。僕はどうしても今日中に済ませないといけない用事があるから、こうして外出しているが。
そんなほとんど見かけない数少ない歩行者の一人が、僕が信号待ちをしている時に後ろからやってきた。外見から判断するに、小学生だろう。
ちょっとビックリした。何がビックリしたって、その子は何故か桶を持ち歩いている。
と言っても両手で桶を抱えている訳ではなくて、桶を縦にして、手をその中に入れている。まるで逮捕された人に嵌められている手錠を隠すために上からコートが掛けられているかのような状態だ。
「ねえ、どうして桶をそんな状態で持ってるの?」
僕は思わず質問した。するとその子は、腕をわずかに動かして、桶の内部が僕に見えるようにした。
「……それは?」
「PSPだよ」
その子はあっさりと答えた。僕も一目見た瞬間にPSPだなとは思ったけど、あまりにも状況がおかしかったので、つい確認を取ってしまった。
「今、モンハンやってるんだよ。友達とパーティを組んで狩りに出てるんだ」
モンハンとは、モンスターハンターのことだ。オンラインゲームなので、他の人と一緒にプレイできる。この子は今、ゲーム内で友達と一緒にパーティを組んでゲームをしているというわけだ。
しかし、何でこんな風の強い日に、わざわざ外でモンハンをやっているんだ?
「今日は友達の家に遊びに行く約束をしていたんだ。でもお母さんには今日は出かけちゃダメって言われて……」
「そりゃそうだ」
これだけの風だから、小さい子が一人で外出なんて危ない。止められるに決まっている。
「だから家でモンハンやってたんだけど、僕、宿題やってないのすっかり忘れてて……明日提出なんだ。先生すごく怖い人で……やってかないとメチャクチャ怒るんだよ」
「で、その宿題を友達の家でやろうと」
「うん。それでお母さんに内緒でこっそり出てきちゃった」
よっぽどその先生は怖いのだろう。こんな強風にも関わらず外出を決意させたのだから。無断で外出したことはどうせ母親にバレる。つまりこの子にとっては母が怒るよりも先生が怒る方が数段怖いというわけだ。ついでに、これだけの強風よりも。
しかしこれは、外でモンハンをやる理由にはならない。
「狩りの途中だったから止めれなくて、だから歩きながら続けることにしたんだよ」
「その桶は?」
「これくらいの風だと、何か物がいきなり飛んで来るかもしれないと思って。PSPが壊れないためだよ」
「……そりゃ賢いね」
皮肉を込めて言ったつもりだったが、その子は僕の言葉にニカッと笑った。
「あ、信号が変わったよ、お兄ちゃん」
そう言ってその子が歩き出した。桶でガードしながら友達の家への移動中にポータブルゲームをやる――何てアグレッシブな子なのだろう。物が飛んで来るということは、自身の体が傷つく可能性だってあるのに。むしろ表面積を考えたらそっちの確率の方が高い。
心配になった。幸い向かう方角は一緒みたいだし、ついていくことにしよう。
「友達の家は近いの?」
「歩いてあと五分くらいだよ」
僕の問いに返事をするも、桶に隠れたPSPを器用に操作し続けている。桶で画面が見えなくならないように両腕を広げて桶を押さえている姿は、ちょっと面白い。
道中、喋ったのはその一言だけで、あとは黙々と並んで歩いていた。
相変わらず風は強い。だが奇跡的にも――と言うのはちょっと大袈裟か――物が僕たちに向かって飛んで来ることはなく、無事に目的地に到着した。
「お兄ちゃんはどこまで行くの?」
「僕はもう少し先まで」
「そっか。気を付けてね」
「うん、バイバイ」
少年は、手を振って友達の家に向かって行く。玄関に入るのを見届けてからその場を去ろうと思い、僕はじっとその場にたたずんでいたが――
「うおっ!?」
風が一瞬だけ強さを増した。瞬間最大風速なんかは、平均風速の二倍近い速さにもなるらしい。ということは、風速四十メートルくらいの風が吹く可能性もあるわけだ。
これはやばい。何がやばいって、僕の眼鏡が横風で吹き飛んだのがやばい。眼鏡が吹き飛ぶことなんてあり得なさそうだが、実際にこうして起こったのだから、何の否定語も今は意味を成さない。目の前にある現実こそが事実。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
僕が大声を出したことで、何かあると思ったのだろう。少年は歩を止めて振り返り、こっちに戻って来た。
「何とか大丈夫だよ。体はね」
問題は眼鏡だ。
視線を右に向けると、数メートル向こうで僕の眼鏡が完全にノックダウンしていた。
あれだけの勢いで吹き飛んだのだ。レンズが割れない方がおかしい。
僕は眼鏡を拾って少年のところに戻った。
「あちゃぁ……割れちゃってるね」
「油断してた……とかそういう問題じゃないけど、まさか吹っ飛ぶなんて……」
「メガネなくて大丈夫なの、お兄ちゃん?」
「うん、まあ……」
実を言うと、あまり大丈夫ではない。僕は超が付くド近眼だ。こんな、いつ、何が、どこから飛んで来るのかも分からないような日に裸眼で行動するのは、目隠しをして虎の穴に入るようなものだ。
さて、どうするか。
ちなみに目の前にいる少年も眼鏡を掛けているが、まさか借りるわけにもいくまい。
「……あ」
「どうしたの?」
少年が不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、その桶、僕に貸してくれないかな?」
「これを?」
「君は目的地に着いてるし、ここからは使わないよね? だから、もし良かったら、それを貸してもらえると助かる」
「それは別に良いけど……」
「あ、それと、友達の家でキリも借りられないかな?」
「キリ? あのくるくる回して穴を開けるやつ?」
「そうそう。あのキリ」
少年は僕が何をやろうとしているのか全く分かっていないようだったが、それでも元気良く、分かった、と頷いて、友達の家の中に小走りで入って行った。
数分後に出て来た時、少年の手にはPSPの代わりにキリが握られていた。
「はい、借りてきたよ」
「ありがとう。ほんとに助かるよ」
僕は早速キリを桶の底に刺した。火でも熾しているのかと言わんばかりの勢いで、キリをくるくる回す。
穴が開くのにたいした時間は掛からなかった。
「何で穴を開けるの?」
少年が桶に顔を近付けながら言った。
「ピンホール効果って知ってる?」
「ピンボール?」
「ピンボールじゃなくてピンホールだよ」
「ううん、知らない」
無理もない。僕も小学生の頃はそんな言葉知らなかった。
「ピンホール効果ってなあに?」
「百聞は一見にしかず。眼鏡を外してここから外を見てごらん」
僕は少年に桶を渡し、穴を覗かせた。
「……あ! 何だか遠くの方もはっきり見えるよ」
「これがピンホール効果。原理は話すと長くなっちゃうんだけど、つまりこれを使えば僕も眼鏡がなくても遠くがはっきりと見えるんだ」
「すごーい!」
子供というのは無邪気なものだ。新大陸を探す航海士のように、少年はそこかしこを桶穴から見回している。
まあ、世間から見たら僕も十分に子供だが。
微笑ましい光景ではあるのだが、いつまでも眺めているわけにもいかない。
「さあ、そろそろ行かなきゃ。君も、友達が待ってるでしょ? 狩りの途中で」
「あ、そうだった」
思い出したかのように、少年は桶から顔を離した。
「僕も行かなくちゃ。それじゃあお兄ちゃん、気を付けてね」
「ありがとう」
今度こそ、少年が友達の家に入るのをしっかりと見届け、僕は桶を掲げて歩き始めた。
周りから見れば滑稽以外の何者でもないが、これは意外と便利だ。ピンホール効果で視界が良好なのはもちろんのこと、正面から何かが飛んで来ても、桶がガードしてくれる。視野の狭さを防御力がカバーしてくれている状態だ。
予想以上に素晴らしいひらめきだったかもしれない。
しばらく歩いていると、再び信号に引っ掛かった。さすがにピンホール効果なしでも信号の色くらいは見分けられるが、桶穴から見える新世界のあまりの新鮮さに、僕は信号待ちの時もずっと桶穴を覗いていた。
信号が青に変わり、前進開始。この信号を渡れば、目的地はすぐそこだ。
そのまま何事もなく目的地に到着し、速やかに建物の中に入れれば良かったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
僕が入ろうとしている建物の隣には、一軒のお店がある。お店の前には比較的背の低い看板が立っており、そして今、その看板の前で一人の女性がしゃがみ込んでいる。
お店の従業員さんだ。顔見知りのお姉さん。
「久美お姉さん、どうかしたの?」
僕は顔から桶を外して、その女性に話しかけた。声に反応して、お姉さんが顔を上げる。
「あら、こんにちは。今日は眼鏡をしてないのね」
「具合でも悪いの?」
「ううん、そうじゃなくて……」
お姉さんが視線を下げたので、僕もそっちを見た。
「看板が動かないように砂袋の重しを使ってたんだけど、破れちゃったのよ。おかげで中の砂がどんどんこぼれてくの。木の破片でも飛んできて、上手いこと刺さったのかなぁ?」
このままじゃ危ないわ、とお姉さんが溜め息をついた。
「ていうか、今日は看板なんて出さない方が良いんじゃ……」
重しがあっても今日は危ないような気がする。
「まあ、そうなんだけどね。でも一応、こんな強風でもお店やってるんですよ~ってアピールした方が良いじゃない?」
「そもそもこんな時にお店を開けてるってのがすごいよ」
「それより、何でそんなもの持ってるの?」
お姉さんの視線が、桶に注がれる。
僕は眼鏡が割れて少年に桶を借りたことを簡潔に話した。
「面白いこと思いついたものねぇ……あ、そうだ!」
勢い良くポンと手を叩くお姉さん。強風にも負けず、今日も元気いっぱいのようだ。
「それ、貸してくれない?」
「桶を?」
「どうせ君は、そこに用があって来たんでしょ? じゃあ、もう桶必要ないじゃん」
「でも、帰りが……」
「夜までそこにいるなら、閉店後にあたしが送ってってあげるよ」
「ほんと?」
それは助かる。車での移動なら、ピンホール効果に頼る必要もない。
「桶を何に使うの?」
「もちろん、砂袋の代わり」
「でも、穴開いてるよ」
僕はキリで空けた小さな穴を見せた。
「それくらいなら問題ないわよ。桶の中に袋ごと入れちゃうから」
砂がこぼれても桶の中なら大丈夫ということか。
「ってなことで、ちょっと袋を桶に入れるの手伝って」
僕は頷いて、お姉さんと一緒に砂袋を持ち上げ、桶の中に入れた。ついでに、地面にこぼれている砂も、可能な範囲で回収し、一緒に桶の中に入れる。
「これで良し。助かったわ、ありがとう」
確かにこれなら、看板も大丈夫そうだ。
それにしても――。
防御壁になったり、眼鏡の代わりになったり、重しになったり。
強風が招く、あるいは招いた様々なトラブルを、一挙に解決できる万能アイテム、桶。
そりゃ、桶屋も儲かるわけだよね。
気象庁によれば、平均風速は二十メートル近くあるそうだ。風力にすれば八から九、これは人家に被害が出始めるくらいの強さである。強風警報も発令され、なるべくなら外を歩き回らない方が良い。
当然ながら、外出している人は少ない。特に歩行者はほとんど見かけない。僕はどうしても今日中に済ませないといけない用事があるから、こうして外出しているが。
そんなほとんど見かけない数少ない歩行者の一人が、僕が信号待ちをしている時に後ろからやってきた。外見から判断するに、小学生だろう。
ちょっとビックリした。何がビックリしたって、その子は何故か桶を持ち歩いている。
と言っても両手で桶を抱えている訳ではなくて、桶を縦にして、手をその中に入れている。まるで逮捕された人に嵌められている手錠を隠すために上からコートが掛けられているかのような状態だ。
「ねえ、どうして桶をそんな状態で持ってるの?」
僕は思わず質問した。するとその子は、腕をわずかに動かして、桶の内部が僕に見えるようにした。
「……それは?」
「PSPだよ」
その子はあっさりと答えた。僕も一目見た瞬間にPSPだなとは思ったけど、あまりにも状況がおかしかったので、つい確認を取ってしまった。
「今、モンハンやってるんだよ。友達とパーティを組んで狩りに出てるんだ」
モンハンとは、モンスターハンターのことだ。オンラインゲームなので、他の人と一緒にプレイできる。この子は今、ゲーム内で友達と一緒にパーティを組んでゲームをしているというわけだ。
しかし、何でこんな風の強い日に、わざわざ外でモンハンをやっているんだ?
「今日は友達の家に遊びに行く約束をしていたんだ。でもお母さんには今日は出かけちゃダメって言われて……」
「そりゃそうだ」
これだけの風だから、小さい子が一人で外出なんて危ない。止められるに決まっている。
「だから家でモンハンやってたんだけど、僕、宿題やってないのすっかり忘れてて……明日提出なんだ。先生すごく怖い人で……やってかないとメチャクチャ怒るんだよ」
「で、その宿題を友達の家でやろうと」
「うん。それでお母さんに内緒でこっそり出てきちゃった」
よっぽどその先生は怖いのだろう。こんな強風にも関わらず外出を決意させたのだから。無断で外出したことはどうせ母親にバレる。つまりこの子にとっては母が怒るよりも先生が怒る方が数段怖いというわけだ。ついでに、これだけの強風よりも。
しかしこれは、外でモンハンをやる理由にはならない。
「狩りの途中だったから止めれなくて、だから歩きながら続けることにしたんだよ」
「その桶は?」
「これくらいの風だと、何か物がいきなり飛んで来るかもしれないと思って。PSPが壊れないためだよ」
「……そりゃ賢いね」
皮肉を込めて言ったつもりだったが、その子は僕の言葉にニカッと笑った。
「あ、信号が変わったよ、お兄ちゃん」
そう言ってその子が歩き出した。桶でガードしながら友達の家への移動中にポータブルゲームをやる――何てアグレッシブな子なのだろう。物が飛んで来るということは、自身の体が傷つく可能性だってあるのに。むしろ表面積を考えたらそっちの確率の方が高い。
心配になった。幸い向かう方角は一緒みたいだし、ついていくことにしよう。
「友達の家は近いの?」
「歩いてあと五分くらいだよ」
僕の問いに返事をするも、桶に隠れたPSPを器用に操作し続けている。桶で画面が見えなくならないように両腕を広げて桶を押さえている姿は、ちょっと面白い。
道中、喋ったのはその一言だけで、あとは黙々と並んで歩いていた。
相変わらず風は強い。だが奇跡的にも――と言うのはちょっと大袈裟か――物が僕たちに向かって飛んで来ることはなく、無事に目的地に到着した。
「お兄ちゃんはどこまで行くの?」
「僕はもう少し先まで」
「そっか。気を付けてね」
「うん、バイバイ」
少年は、手を振って友達の家に向かって行く。玄関に入るのを見届けてからその場を去ろうと思い、僕はじっとその場にたたずんでいたが――
「うおっ!?」
風が一瞬だけ強さを増した。瞬間最大風速なんかは、平均風速の二倍近い速さにもなるらしい。ということは、風速四十メートルくらいの風が吹く可能性もあるわけだ。
これはやばい。何がやばいって、僕の眼鏡が横風で吹き飛んだのがやばい。眼鏡が吹き飛ぶことなんてあり得なさそうだが、実際にこうして起こったのだから、何の否定語も今は意味を成さない。目の前にある現実こそが事実。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
僕が大声を出したことで、何かあると思ったのだろう。少年は歩を止めて振り返り、こっちに戻って来た。
「何とか大丈夫だよ。体はね」
問題は眼鏡だ。
視線を右に向けると、数メートル向こうで僕の眼鏡が完全にノックダウンしていた。
あれだけの勢いで吹き飛んだのだ。レンズが割れない方がおかしい。
僕は眼鏡を拾って少年のところに戻った。
「あちゃぁ……割れちゃってるね」
「油断してた……とかそういう問題じゃないけど、まさか吹っ飛ぶなんて……」
「メガネなくて大丈夫なの、お兄ちゃん?」
「うん、まあ……」
実を言うと、あまり大丈夫ではない。僕は超が付くド近眼だ。こんな、いつ、何が、どこから飛んで来るのかも分からないような日に裸眼で行動するのは、目隠しをして虎の穴に入るようなものだ。
さて、どうするか。
ちなみに目の前にいる少年も眼鏡を掛けているが、まさか借りるわけにもいくまい。
「……あ」
「どうしたの?」
少年が不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、その桶、僕に貸してくれないかな?」
「これを?」
「君は目的地に着いてるし、ここからは使わないよね? だから、もし良かったら、それを貸してもらえると助かる」
「それは別に良いけど……」
「あ、それと、友達の家でキリも借りられないかな?」
「キリ? あのくるくる回して穴を開けるやつ?」
「そうそう。あのキリ」
少年は僕が何をやろうとしているのか全く分かっていないようだったが、それでも元気良く、分かった、と頷いて、友達の家の中に小走りで入って行った。
数分後に出て来た時、少年の手にはPSPの代わりにキリが握られていた。
「はい、借りてきたよ」
「ありがとう。ほんとに助かるよ」
僕は早速キリを桶の底に刺した。火でも熾しているのかと言わんばかりの勢いで、キリをくるくる回す。
穴が開くのにたいした時間は掛からなかった。
「何で穴を開けるの?」
少年が桶に顔を近付けながら言った。
「ピンホール効果って知ってる?」
「ピンボール?」
「ピンボールじゃなくてピンホールだよ」
「ううん、知らない」
無理もない。僕も小学生の頃はそんな言葉知らなかった。
「ピンホール効果ってなあに?」
「百聞は一見にしかず。眼鏡を外してここから外を見てごらん」
僕は少年に桶を渡し、穴を覗かせた。
「……あ! 何だか遠くの方もはっきり見えるよ」
「これがピンホール効果。原理は話すと長くなっちゃうんだけど、つまりこれを使えば僕も眼鏡がなくても遠くがはっきりと見えるんだ」
「すごーい!」
子供というのは無邪気なものだ。新大陸を探す航海士のように、少年はそこかしこを桶穴から見回している。
まあ、世間から見たら僕も十分に子供だが。
微笑ましい光景ではあるのだが、いつまでも眺めているわけにもいかない。
「さあ、そろそろ行かなきゃ。君も、友達が待ってるでしょ? 狩りの途中で」
「あ、そうだった」
思い出したかのように、少年は桶から顔を離した。
「僕も行かなくちゃ。それじゃあお兄ちゃん、気を付けてね」
「ありがとう」
今度こそ、少年が友達の家に入るのをしっかりと見届け、僕は桶を掲げて歩き始めた。
周りから見れば滑稽以外の何者でもないが、これは意外と便利だ。ピンホール効果で視界が良好なのはもちろんのこと、正面から何かが飛んで来ても、桶がガードしてくれる。視野の狭さを防御力がカバーしてくれている状態だ。
予想以上に素晴らしいひらめきだったかもしれない。
しばらく歩いていると、再び信号に引っ掛かった。さすがにピンホール効果なしでも信号の色くらいは見分けられるが、桶穴から見える新世界のあまりの新鮮さに、僕は信号待ちの時もずっと桶穴を覗いていた。
信号が青に変わり、前進開始。この信号を渡れば、目的地はすぐそこだ。
そのまま何事もなく目的地に到着し、速やかに建物の中に入れれば良かったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
僕が入ろうとしている建物の隣には、一軒のお店がある。お店の前には比較的背の低い看板が立っており、そして今、その看板の前で一人の女性がしゃがみ込んでいる。
お店の従業員さんだ。顔見知りのお姉さん。
「久美お姉さん、どうかしたの?」
僕は顔から桶を外して、その女性に話しかけた。声に反応して、お姉さんが顔を上げる。
「あら、こんにちは。今日は眼鏡をしてないのね」
「具合でも悪いの?」
「ううん、そうじゃなくて……」
お姉さんが視線を下げたので、僕もそっちを見た。
「看板が動かないように砂袋の重しを使ってたんだけど、破れちゃったのよ。おかげで中の砂がどんどんこぼれてくの。木の破片でも飛んできて、上手いこと刺さったのかなぁ?」
このままじゃ危ないわ、とお姉さんが溜め息をついた。
「ていうか、今日は看板なんて出さない方が良いんじゃ……」
重しがあっても今日は危ないような気がする。
「まあ、そうなんだけどね。でも一応、こんな強風でもお店やってるんですよ~ってアピールした方が良いじゃない?」
「そもそもこんな時にお店を開けてるってのがすごいよ」
「それより、何でそんなもの持ってるの?」
お姉さんの視線が、桶に注がれる。
僕は眼鏡が割れて少年に桶を借りたことを簡潔に話した。
「面白いこと思いついたものねぇ……あ、そうだ!」
勢い良くポンと手を叩くお姉さん。強風にも負けず、今日も元気いっぱいのようだ。
「それ、貸してくれない?」
「桶を?」
「どうせ君は、そこに用があって来たんでしょ? じゃあ、もう桶必要ないじゃん」
「でも、帰りが……」
「夜までそこにいるなら、閉店後にあたしが送ってってあげるよ」
「ほんと?」
それは助かる。車での移動なら、ピンホール効果に頼る必要もない。
「桶を何に使うの?」
「もちろん、砂袋の代わり」
「でも、穴開いてるよ」
僕はキリで空けた小さな穴を見せた。
「それくらいなら問題ないわよ。桶の中に袋ごと入れちゃうから」
砂がこぼれても桶の中なら大丈夫ということか。
「ってなことで、ちょっと袋を桶に入れるの手伝って」
僕は頷いて、お姉さんと一緒に砂袋を持ち上げ、桶の中に入れた。ついでに、地面にこぼれている砂も、可能な範囲で回収し、一緒に桶の中に入れる。
「これで良し。助かったわ、ありがとう」
確かにこれなら、看板も大丈夫そうだ。
それにしても――。
防御壁になったり、眼鏡の代わりになったり、重しになったり。
強風が招く、あるいは招いた様々なトラブルを、一挙に解決できる万能アイテム、桶。
そりゃ、桶屋も儲かるわけだよね。