忘れ物

 僕は、昔からよく忘れ物をする。
 学校に教科書を忘れていったり、友達に貸すはずのゲームソフトを持っていくのを忘れたり、大学受験の時に受験票を忘れてしまったこともあった。まあ、あの時は途中で思い出せたから、何とか家に取りに戻って事なきを得たけど。
 忘れ物とは、何も物に限った話ではない。
 就職してからも、営業先の所在地を忘れてしまったり、取引相手の名前を忘れてしまったり、それで上司にこっぴどく怒られたり。
 全く、自分の頭が恨めしい。
 実は今も、忘れ物が一つある。
 しかも今回は、忘れ物が何だったのかを忘れてしまった。
 何かを忘れていることは覚えているんだけど、その内容が思い出せない。
 忘れ物とは、時に記憶や思い出の場合もあるってことだ。
 今日も、その忘れ物を捜すためにここに来た。
 確かここに何かを忘れていったと思ったんだけど――。
 駄目だ、全く思い出せない。
 記憶というのは、全くもって面倒なものだ。
 何かを忘れていることは覚えているなんて、どうせなら、忘れ物をしていること自体も忘れて欲しいものだ。そうすれば、こんなに長い間悩み続けることも無いだろうに。
 でも、この忘れ物は見つけなきゃならない。そんな気がする。
 確か、物凄く大切なものだったと思う。
 そこだけはちゃんと覚えているのに、どうしてその具体的な内容までは覚えていないのか。
 むしろ、そんなに大切なものをどうして忘れてしまったのか。
 これも、自分の頭の悪さの成せる業ってところか。
 結局今日も、その忘れ物を見つけることはできなかった。
 はたしていつになったら、僕はこの忘れ物を見つけることができるのだろうか。
 休みの日にはほぼ必ず、僕はあそこを訪れて、時間の許す限り忘れ物を捜しているというのに、一向に見つかる気配がない。
 あまりにも時間が経ちすぎたせいで、何処か別の場所に行ってしまったのだろうか。それとも、風化して土になってしまったのだろうか。或いは、僕の記憶違いか。
 いや、それはない。
 間違いなく、忘れ物はあそこにある。そしてそれは、風化して土になってしまうようなものではなかったはずだ。

 次の休日、僕はまたここに来た。
 もちろん忘れ物を見つけるためだ。
 そもそも、あれはいつ頃忘れたものだったんだっけ。
 残念なことに、それも思い出すことができない。
 今の僕に分かるのは、確かにここに忘れ物があるということだけだった。
「ふぅ……」
 少し休憩しよう。
 僕は地面に座り、近くにある木にもたれかかった。
 日陰は涼しい。頬に触れる風が心地良い。
 ここには、小さい頃からよく来ていた。
 友達数人で、探検しようとか言って、この森の中を駆け回ったこともある。
 暗くなるまでみんなでかくれんぼをして、友達が一人見つからなくて、心配してやって来た親と一緒に探し回ったこともある。
 奥に行き過ぎて帰り道が分からなくなったことも、何度もあった。何せ忘れ物大王の名を欲しいままにしている僕だ。帰り道を忘れることなんて、面舵と取舵はどっちが右でどっちが左かを忘れるよりも簡単だ。
 左ヒラメに右カレイなんて、何度言われたって忘れてしまう。今だって、本当に左がヒラメで右かカレイか、怪しいもんだ。
「よし、休憩終わり」
 立ち上がり、ズボンに付いた葉っぱを払う。
 しかし、これだけ捜しても見つからないのは、僕の捜し方にも問題があるのかもしれない。もう少し手法を変えてみるべきか。
「……とは言っても、何をどう変えればいいんだろうなぁ」
 今の僕のやり方は、早い話が手当たり次第。とにかく歩き回って、時には落ち葉を掻き分けてみたり、土を掘り返してみたり、時間と足だけに頼った労働だ。もう少し、頭脳労働という言葉を頼りにしてみてもいいかもしれない。
 もっとも、僕の足りない頭に頼ったところで、焼け石にかける水よりも役に立たないのは、火を見るよりも明らかだ。
「水、か……そう言えば、ちょっと喉が渇いたな」
 水は、焼け石にかけてもすぐに蒸発してしまうだけだが、僕の頭にかければ、頭を冷やして思考に冷静さを取り入れることには多少は役立つ。そして何より、喉を潤すことに関してはおおいに役立つ。そう考えたら、余計に水分が欲しくなってきた。
「あの……お茶でよかったら、飲みますか?」
 突然のことに驚きながらも声が聞こえてきた方を向くと、そこには一人の女性がペットボトルを持って立っていた。

「いやぁ、助かりましたよ。ありがとうございます」
 僕は目の前の女性からペットボトルのお茶を受け取り、一気に飲み干した。
「いえ、今日は暑いですからね。この辺は木々がたくさんあるおかげであまり直射日光を浴びなくて済みますけど、森の外は暑いですよ」
「確かニュースでも、今日の予想最高気温は三十度を超えるって言ってましたね」
「ええ、そんな日に水も持たずに外出したら、脱水症状を起こしてしまいますよ」
「面目ない……」
 女性は、ふふ、と笑った。
 歳は僕と同じくらいだろうか。なかなかの美人だ。
「少しは喉の渇きも癒えましたか?」
「あ、はい、おかげさまで。すみません、あまりにも喉が渇いていたので何の遠慮もなく全部飲んでしまって……」
「お気になさらずに。まだありますから」
 そう言うと、その女性はポシェットからもう一本ペットボトルを取り出した。今僕が飲んだお茶と同じ銘柄だ。彼女のお気に入りなのだろうか。
「このお茶って、ずっと昔からありますよね」
「あ、ええ、そうですね。確かに、僕が子供の頃からあるもんな……」
 今も昔もずっと変わらず、まさにロングセラーの商品だ。
 そう言えば、小さい頃みんなでこの森に遊びに来る時には、よくこのお茶を買って持ってきていた気もする。あまりよく覚えていないけど。
「この森には、よく来られるんですか?」
「そうですね……。実はずっと忘れ物を捜していて、今日もそのために来たんですよ」
「まあ……それはきっとよほど大切な物なんですね」
「ええ、そのはずなんですけど、その忘れ物が何だったのか、どうしても思い出せないんですよ」
 僕の言葉に、そうなんですか、と彼女は寂しげに微笑んだ。
「そういうあなたは、ここにはよく?」
「ええ、昔はよく来ていたんですが、実は最近まで別の場所に引っ越していたもので。今日来たのも、何年ぶりになるのかしら?」
「僕も昔はよく来てましたよ。まあ今でもよく来るんですけど、小さい頃は学校の帰りなんかにも友達と来てましたからね」
「奇遇ですね。私も小さい頃は、学校の帰りに来てましたよ」
「そうなんですか?」
 外見から判断するに、歳は一緒くらい。ということは、この人の言う小さい頃と、僕の小さい頃は、時期が近い可能性がある。
 もしかしたら、この女性は僕の知っている人なのだろうか。

「私、好きな男の子がいたんですよ」
 唐突に、彼女がそう言った。
「その男の子は私の同級生で、とても仲が良かったんです。学校の帰りにも、その子とここに来てたんですよ。二人だけの秘密の場所を作ろうなんて言って」
 彼女が遠い目をして微笑んだ。
 秘密の場所か。こういうところに秘密の場所を設けるとか秘密基地を作るとか、小さい子にはありがちな発想だ。
 僕も小さい頃に同じことをやった。
 あれは確か――。
「いつも暗くなるまで、その子とここで遊んでました。あの頃は楽しかったなぁ……その子、方向音痴なのか、しょっちゅう帰り道を間違えるんですよ。この森、結構広いじゃないですか。だから奥の方まで行った後は、たいてい道に迷うんです」
 彼女がクスクスと笑った。楽しかった昔の記憶を思い出して懐かしんでいるのだろう。
 それにしても、その男の子は何だか僕みたいな奴だ。僕もよく帰り道が分からなくて困っていた。それで友達に迷惑をかけたこともあったっけ。友達を泣かせたこともあったな。
 何となく、その彼女の思い出の中の男の子に親近感を覚えてしまう。
「あなたも大変だったでしょう? そんなにしょっちゅう帰り道を間違えるなんて……」
「ええ、でもそれはそれで楽しかったんです。その子、いつも道に迷うのに、なぜかいつも自信だけはたっぷりで、私が正しい道を言っても、そっちじゃない、こっちだって。それで夜遅くなっても帰れなくて、私が泣き出しちゃったこともあったんですよね。今となっては、それもいい思い出ですけどね」
 ますますその男の子に親近感が湧く。
 そう、実は僕も、よく道に迷う割に、自信だけはあったんだ。実際にはそれで更に道に迷ったりしていたんだけど、それでも根拠の無い自信だけは失ったことがなかった。
 今思うと、何で僕はいつもあんなに自信たっぷりだったんだろうか。
 いや――違う。
 あれは自信があったんじゃない。
 そう、僕にも、仲の良い女の子がいたんだ。僕はその子のことが好きで、その子の前で弱いところを見せたくなかったんだ。だから意地になって、仮令道に迷っていても、自信たっぷりに分かっているって見栄を張っていたんだ。
 あの子は、今どうしているだろうか。
 とても好きだったのに、今では顔も名前も思い出せない、あの女の子。
 いつから会わなくなってしまったんだっけ。中学生になってからは、一緒に遊んだ記憶はない。クラスが別々になってしまったからだろうか。
 ぼんやりと記憶が蘇ってくる。
 そうだ、確か小学生の時に――。

「ずっと仲が良かったんですけど、ある日、私、親の都合で引っ越すことになっちゃって……学校も転校しなくちゃいけなくなってしまったんですよ」
「ああ、そう言えばさっき……」
 この女性は最近まで別の場所に引っ越していたと言っていた。
「クラスのみんなと離れ離れになっちゃうことはもちろん悲しかったんですけど、何よりもその男の子と離れちゃうのが辛かった。本当に大好きでしたから……」
 その気持ちは分かる。
 何故なら、僕にも同じ経験があるからだ。
 僕の場合は自分が別の場所に引っ越した訳じゃなくて、相手が引っ越して離れ離れになってしまったんだけども。
 そう、僕が大好きだったあの女の子。あの子は、僕達がまだ小学生の時に、転校してしまったんだ。会わなくなってしまったのは、それが原因だ。
 あれは、本当に悲しくて辛かった。だからこの人の気持ちはよく分かる。
「私が引っ越してしまう前の日に、やっぱり二人でここに来たんですよ」
 彼女が、ゆっくりと僕の横を通り過ぎ、僕のすぐ後ろにある木に触れた。
「そう、ちょうどこの木の下ですね。ここは森だから周りも木ばかりですけど、この木だけは見間違えたりしません」
 僕もその木を見上げた。
 僕が、忘れ物をしたのがこの辺りだと思っているのも、実はこの木を目印にしている。彼女の言う通り、確かにここは見渡す限り木だらけだが、この木だけは他の木とは違う。
 僕がいくら道に迷う人間だったとは言え、この木だけは間違えない。
「この木の下で、私はその男の子と、約束をしたんですよね」
「約……束?」
 不意に僕の頭が記憶の糸を辿り始めた。
 約束。大事な約束。
 そうだ。僕の中にも、幼い頃に交わした大事な約束があった。
 その約束とは――
「しばらく会えなくなるけど、大人になったら、自分の力で生活できるようになったら、私、絶対にまたここに戻って来るから、そうしたら……」
「二人で一緒に暮らそう……だったね」
 僕がそう言うと、彼女はこっちを向いて、にっこりと微笑んだ。
「忘れ物が何だったか、思い出してくれた?」
「うん、たった今思い出したよ。ごめん……大事な約束なのに、ずっと忘れてて」
「ちゃんと思い出してくれたからいいよ」
 そう言って、彼女がそっと抱きついてきた。
「約束……守ってくれるよね?」
「ああ、もちろん」
 忘れ物とは、時に言葉の場合もあるってことさ。

ロマンを捨てなかった男