七夕の夜に

 僕は彼女のことが大好きだった。彼女のためなら何でもできる。命も惜しくない。
 だから僕は、彼女のために、彼女を助けるために、人を殺した。
 彼女は優しいから、一緒に逃げようと言ってくれた。でも僕はそれを断った。僕は人殺しだ。そんな僕と一緒にいたら、彼女に不幸が降りかかる恐れがある。だからといって、僕が一人で逃げてどこかに身を隠しても、僕が犯人として捕まらない限り、警察は彼女にもあらぬ疑いを掛ける可能性がある。
 僕は自首すると彼女に言った。僕が人を殺したのは事実だし、これが彼女にとって一番不幸にならない方法だと判断したからだ。
 最初は拒んでいたけれど、僕が絶対に意見を曲げないと分かってくれたのか、不承不承ながらも彼女は頷いてくれた。
「待ってるからね……出て来るまで、待ってるから」
 彼女はそう言ってくれたけど、僕は何も返さなかった。僕のことなんか待っていたって幸せになれないからと突っぱねるのは簡単だったけど、きっと、僕自身が彼女にそう言ってもらえて嬉しかったから、それができなかったんだ。自分勝手な奴だ、僕は。
「毎年、七夕の今日、私、ここにずっといるから。君が出て来たら、その年の七夕に、またここで会おうね。約束」
 彼女は指切りのために小指を出して来た。僕は自分の小指をからめなかった。
 警察には彼女のことは一切話さなかった。今回の事件に関わったのは僕一人だけ。それで押し通した。警察はその話を信じてくれた。だからお咎めを受けたのは僕だけで済んだ。
 刑法のこととかは全く分からないけれど、僕は数年ほどで出所することができた。
 久しぶりに地元に帰って来たけれど、やっぱり殺人犯のレッテルは重い。見知った顔の人がことごとく僕を避けて行く。それでも他に行くあてもなかったし、しばらくは我慢してここで暮らすことにした。
 何日もしないうちに、七夕がやって来た。
 彼女は、本当にあの場所で待っているのだろうか。去年も一昨年も、来るか来ないかも分からずに、ずっと待っていたのだろうか。彼女ならあり得る。
 夜になり、僕は彼女に会いに行くことにした。
 彼女は本当にいた。木に寄りかかって、何をするでもなく、じっと俯いている。
 声を掛けようと思った矢先、小枝を踏む音に反応して、彼女がこっちを見た。
「あ……!」
 彼女が胸に飛び込んで来た。
「ずっと……待ってたんだから」
 彼女は泣いていた。
「これからは、一緒にいてくれるよね?」
 彼女が見上げて来る。僕は数秒彼女の顔を見つめた後、首を横に振った。
「ど、どうして……?」
「ずっと待っててくれたのは本当に嬉しいし申し訳ないとも思うけど、でもやっぱり僕と一緒にいちゃダメだよ」
「どうして? どうしてそんなこと言うの?」
 僕は指で彼女の涙を拭った。
「出て来られたとはいえ、世間のみんなはまだ僕のことを殺人犯という目で見て来る。そんな僕と一緒にいたら、君だって辛い思いをいっぱいするよ。今も、近所の風当たりがすごく冷たいんだ」
「そんなこと気にしないよ。君と一緒にいられれば私はそれで良い。近所の人たちの目が辛いのなら、一緒にどこかに引っ越そうよ」
「無理だよ。僕はまだ出て来たばかりで、仕事だってしていない。とてもじゃないけど、そんな余裕はない」
 しばらく彼女との問答が続いた。でも、現実的に今すぐにどこかに二人で移り住むのは無理だということは、彼女も納得してくれた。
「じゃあ、来年の今日、またここで会おうよ。それまでにお金貯めて、そしたら一緒に遠くに行こう。私も頑張ってお金貯めるから」
 僕は賛同しなかった。一年も、僕との生活のためにお金を稼ぐくらいなら、その一年の間に幸せを見つけた方が良い。僕は彼女にそう言った。でも彼女は受け入れなかった。
「とにかく、この一年を頑張ろうよ。約束!」
 今回は強引に指切りをさせられた。
 それから一年間、彼女とは一切連絡を取らなかった。幸い、僕も働き口が見つかって、何とか生活には困らないだけの保障は手に入れた。
 一年はあっという間に過ぎた。
 例の場所に行ったら、彼女はすでに待っていた。
「お金は貯まった?」
 彼女は笑顔を浮かべていた。たぶん、彼女の方はそれなりに資金が貯まったのだろう。
 でも僕は、今の生活がギリギリで、とても貯蓄できるほどではなかった。だから正直にそう言った。
「そっか……でも大丈夫だよ。私の方に余裕があるから。最初は苦しい生活になっちゃうかもしれないけど、それも良いんじゃないかな」
 彼女はにこやかに笑っている。胸が痛かった。
 僕なんかのために、こんなに頑張ってくれる。それはとても嬉しい。でも、だからこそ、彼女に辛い思いはさせたくない。僕の頑張りが足りないせいで、彼女が苦しい思いをするのは嫌だ。好きだからこそ、そんな彼女は見たくない。
「……もう一年、待とう」
 僕はそう言った。
 本当はこんなこと、言うつもりじゃなかった。
 やっぱり一緒にはいられないと、はっきり言うつもりだった。でもなぜだろう。彼女の笑顔を見ていたら、その一言が出て来なかった。
「僕も今以上に頑張るよ。だからもう一年だけ、待とう」
 沈黙が続いた。彼女も真剣に考えているようだった。何度もポーズを変えながら彼女は長時間悩んでいたけれど――
「うん、分かった! 来年こそは絶対だよ?」
 元気に答えて、僕たちはまた指切りをして別れた。
 一年は、やっぱりあっという間だった。
 この一年で、僕の心情も随分と変化した。
 もう、彼女と一緒にいるのを止めようとは思わなくなった。僕では力不足かもしれないけれど、こんな僕でも慕ってくれる彼女のために、一生懸命尽くそうと、そう思えるようになった。
 だからこの一年は、かなり頑張った。ある程度の余裕もできた。
 七夕の夜がやって来て、僕はまたあの場所に向かった。
 いつも通り、彼女は先に来ていた。
 毎度のように、彼女は僕の姿を見つけるなり、満面の笑顔を――
 ――浮かべなかった。
 萎れた向日葵みたいに、今日の彼女は元気がない。
「どうしたの?」
「うん……」
 彼女は曖昧に返事をするだけで、何も言わなかった。
 何があったのかはよく分からないけれど、元気づける意味も込めて、僕はこの一年ちゃんと頑張ったことを言おうと思った。これで一緒に遠くの町にも引っ越せる。
 そう、言うつもりだった。
「今日は……お別れを言いに来たの。ここに来るのも、これきりにする」
「……え?」
 一瞬彼女が何を言ったのか、理解できなかった。
「実は……その……」
 彼女は口ごもり、蚊の鳴くような声で、好きな人ができたの、と言った。
「ごめんなさい……」
 目を伏せて、彼女はそう言った。
 僕は彼女の話をじっと聞いた。
 その好きな人は、同じ職場の人らしい。聞くのは初めてだったけれど、彼女は勤務先では結構辛い思いもしていたそうだ。話の中には、口に出すのがはばかられるようなものもいくつか出てきた。僕があの人を殺したのも似たような理由だった。彼女は、そういう目にあいやすいタイプなのかもしれない。仕事を辞めようかとも何度も思ったけれど、僕との約束があるからと、じっと耐え続けていたらしい。
 でも、三ヶ月ほど前に新しく職場に入って来た一人の男性のおかげで、だいぶ環境が変わったそうだ。社内での辛い現実は相変わらずだったようだが、彼女が落ち込むたびに、その彼はそばでずっと励ましてくれたらしい。
 気がついたら、心が惹かれていた。
「ごめん……なさい」
 無理もない。僕たちはお互いが頑張るとだけ一年に一回誓い合って、それ以外は全く連絡を取らなかったのだ。辛いときに励ましも慰めもしない。好きだからってだけで信じていられたつもりだけど、それはただの言い訳でしかない。
「先日、おつき合いしてくれって、その人に言われたの。まだ返事はしてないんだけど、私……その人と一緒に、人生を歩みたい。君のことは今でも大好きだけど……」
「それが良いよ」
 僕はそう答えた。
「実はその、僕も思った以上には頑張れなくて……このままじゃ何年経っても僕たちは歩き出せないからって、言うつもりだったんだ」
「……そっか」
 彼女が顔を上げた。
「きっと、幸せになれるよ」
「うん、ありがとう」
 彼女は優しく笑った。でも、目からは大粒の涙がこぼれていた。
 これで良い。
 そう、これで良いんだ。
 僕たちはしばらく、黙って星を眺めていた。
 今日は七夕。織姫と彦星が、一年に一度だけ会える日。
 僕たちの織姫と彦星ごっこは、今日で終わりを迎えるけれど、彼らはこれから先も、ずっと年に一度の逢瀬を繰り返すのだろう。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「……うん」
 僕たちは見つめ合った。
「さよなら」
「さよなら」
 彼女の姿が見えなくなるまで、僕はその後ろ姿を見送った。彼女は一度も振り返ることなく、闇に溶けて消えて行った。
「……帰るか」
 蝉の声が、虚しく夜空にこだましていた。

狸と狐と狢