海の音
海に行きたかった。
私は、生まれてから一度も海を見たことがない。
周りの人から聞いた話によって作られたイメージ、それが、私の中にある海という世界。
それはとても広大で壮大。
せめて一度だけ。
一度だけでいいから、海に行ってみたい。
私にはもう、残された時間が少ない。
でも、私一人の力では、海に行くことができない。
私には、身寄りがない。
両親もいない。親戚もいない。
私が普段言葉を交わすのは、私自身とは全く血の繋がりのない、私の身の回りの世話をしてくれる、看護師さんだけ。
あとは、医者の先生かな。滅多に話すことはないけれど。
先生も、私がもう助からないことを知っているからなのか、親身になって治療しようとか、そういうことは思っていないみたい。
私は、この病院から外に出られない。
それでも、海に行きたいと願わずにはいられない。
ある時、一人の看護師さんが、私を海に連れて行ってくれると言った。
私に同情したのか、それとも、もう本当に時間が無いから、最期に私のお願いを叶えてくれようとしたのか、それは分からないけれど、でも嬉しかった。
私のいる病院から海までは、車で三十分ほどかかるらしい。
私は車を運転できないので、その看護師さんの車に乗って行くことになった。
「足元、気をつけてね」
この看護師のお姉さんは、いつも私に優しい。
他の看護師さんは、やっぱり私が助からないせいなのか、そんなに優しくない気がする。
私以外にも看護しなきゃいけない人がたくさんいるから、それは仕方ないことだと思う。
「海に行ったら、何かしたいことはあるの?」
「特に何も。海というものがどんなものなのか、それが分かればいいの」
それきり、看護師さんは何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
聞こえるのは、車の音だけ。
海は、どんな音がするのかな。
「さあ、着いたわよ」
車が停車した。
看護師さんが私の手を引いてくれた。
「私を勝手に連れ出して、あとで怒られない?」
「ふふ、大丈夫よ。あなたはそんなこと気にしなくていいの」
やっぱりこの人は優しい。
看護師さんの手に捕まり、私は生まれて初めて海というところに来た。
「どう、初めて来る海の感想は?」
「……とても綺麗な音がする」
そのまま手を引かれて、私は波打ち際というところまで歩いた。
足に冷たい感触がある。
「これが、海……」
「海の水はね、塩水だからしょっぱいのよ」
「知ってる。お姉さんが教えてくれたから」
「そうだったわね」
私はその場にしゃがみ込んで、その塩水とやらに触れてみた。
「手を舐めてみて。しょっぱいから」
言われるままに、私は手についた塩水を舐めてみた。
確かにしょっぱくて、少し辛い。でも、美味しいと思った。
私は今、海というものを体全体で味わっている。だから水も美味しく感じる。
「……来られて良かった。ありがとう、お姉さん」
「どういたしまして」
きっと、これが私の一生に一度のお願いなんだと思う。だから、これ以上のことは望んじゃいけない。
でも、もし――。
もしも、もう一つだけ願いが叶うのなら。
私は、この目で海を見たかった。
「音がとても綺麗。水もしょっぱいけど美味しい。でも……私には海の広さは分からない」
「あなたは、生まれた時から目が見えないからね」
そう言う看護師さんの声は、とても悲しそうだった。
その日の夜、私は人生で最後の夢を見た。
それは、今日聞いたあの綺麗な音と、一面に広がる水景色。水を手に掬って舐めてみると、やっぱりしょっぱかった。
私のもう一つの願いは、きっとこれで叶ったんだ。
この一面に広がる景色が海なんだなと、私は薄れゆく意識の中で思った。
私は、生まれてから一度も海を見たことがない。
周りの人から聞いた話によって作られたイメージ、それが、私の中にある海という世界。
それはとても広大で壮大。
せめて一度だけ。
一度だけでいいから、海に行ってみたい。
私にはもう、残された時間が少ない。
でも、私一人の力では、海に行くことができない。
私には、身寄りがない。
両親もいない。親戚もいない。
私が普段言葉を交わすのは、私自身とは全く血の繋がりのない、私の身の回りの世話をしてくれる、看護師さんだけ。
あとは、医者の先生かな。滅多に話すことはないけれど。
先生も、私がもう助からないことを知っているからなのか、親身になって治療しようとか、そういうことは思っていないみたい。
私は、この病院から外に出られない。
それでも、海に行きたいと願わずにはいられない。
ある時、一人の看護師さんが、私を海に連れて行ってくれると言った。
私に同情したのか、それとも、もう本当に時間が無いから、最期に私のお願いを叶えてくれようとしたのか、それは分からないけれど、でも嬉しかった。
私のいる病院から海までは、車で三十分ほどかかるらしい。
私は車を運転できないので、その看護師さんの車に乗って行くことになった。
「足元、気をつけてね」
この看護師のお姉さんは、いつも私に優しい。
他の看護師さんは、やっぱり私が助からないせいなのか、そんなに優しくない気がする。
私以外にも看護しなきゃいけない人がたくさんいるから、それは仕方ないことだと思う。
「海に行ったら、何かしたいことはあるの?」
「特に何も。海というものがどんなものなのか、それが分かればいいの」
それきり、看護師さんは何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
聞こえるのは、車の音だけ。
海は、どんな音がするのかな。
「さあ、着いたわよ」
車が停車した。
看護師さんが私の手を引いてくれた。
「私を勝手に連れ出して、あとで怒られない?」
「ふふ、大丈夫よ。あなたはそんなこと気にしなくていいの」
やっぱりこの人は優しい。
看護師さんの手に捕まり、私は生まれて初めて海というところに来た。
「どう、初めて来る海の感想は?」
「……とても綺麗な音がする」
そのまま手を引かれて、私は波打ち際というところまで歩いた。
足に冷たい感触がある。
「これが、海……」
「海の水はね、塩水だからしょっぱいのよ」
「知ってる。お姉さんが教えてくれたから」
「そうだったわね」
私はその場にしゃがみ込んで、その塩水とやらに触れてみた。
「手を舐めてみて。しょっぱいから」
言われるままに、私は手についた塩水を舐めてみた。
確かにしょっぱくて、少し辛い。でも、美味しいと思った。
私は今、海というものを体全体で味わっている。だから水も美味しく感じる。
「……来られて良かった。ありがとう、お姉さん」
「どういたしまして」
きっと、これが私の一生に一度のお願いなんだと思う。だから、これ以上のことは望んじゃいけない。
でも、もし――。
もしも、もう一つだけ願いが叶うのなら。
私は、この目で海を見たかった。
「音がとても綺麗。水もしょっぱいけど美味しい。でも……私には海の広さは分からない」
「あなたは、生まれた時から目が見えないからね」
そう言う看護師さんの声は、とても悲しそうだった。
その日の夜、私は人生で最後の夢を見た。
それは、今日聞いたあの綺麗な音と、一面に広がる水景色。水を手に掬って舐めてみると、やっぱりしょっぱかった。
私のもう一つの願いは、きっとこれで叶ったんだ。
この一面に広がる景色が海なんだなと、私は薄れゆく意識の中で思った。