大人味
「ハロー!」
そう言って部屋に入ってきたのは、202号室に住んでいるお姉さん。
いわゆる、お隣さんだ。
僕より6つ年上で、僕がこのアパートに引っ越してきた時から、何かと面倒を見てくれる、頼りがいのあるお姉さんだ。
高校が家からじゃ通えない距離にあるということで、中学卒業と同時に、僕はこのアパートに引っ越してきた。
高校生の男子が一人暮らしをするというのは結構大変で、さすがに2年以上一人暮らしをやってるおかげで今はだいぶ慣れたけど、最初は何かと苦労した。何せ料理もろくにできないもんだから、ついついコンビニに頼った食生活を送ってしまい、バイトはしているものの、生活費の大半は食費に消えてしまい、自由に遊ぶお金は意外と少なかった。
そんな僕がいろいろとお世話になったのがこの隣のお姉さんで、たまに料理を作って持ってきてくれたり、むしろ一人暮らしのための簡単な料理の作り方も教えてくれて、おかげで今じゃ食費はピーク時の半分くらいになっている。
「ごめんねぇ、また涼みに来たよ」
そう言って、お姉さんはベッドの上にどかっと座った。お姉さんの部屋は今クーラーが壊れているらしく、事あるごとに僕の部屋に涼みに来る。まあ、もはやこのお姉さんとは姉弟みたいな仲だし、今更そんなことは気にしない。
「やっぱクーラーは良いよねぇ」
シャツをパタパタと煽ってから、お姉さんは煙草を取り出して火を点けた。
僕の部屋には、主である僕が煙草を吸わないのに、灰皿が置いてある。
もちろん、このお姉さんが吸うためだ。初めて会った時からこの人は煙草を吸っていたけど、その時既に二十歳は超えていたから、別にとがめる理由も無い。
「今何してたの?」
「うん、そろそろ期末テストだから、ちょっと勉強を……」
「ふーん、真面目な学生さんねぇ」
お姉さんには、勉強面でもお世話になった。
高校を出てすぐにOLになったこのお姉さんだが、かなり勉強はできる人らしく、僕が分からないところを聞くと、文系理系を問わずに教えてくれた。
家庭教師にして料理の先生にして姉。まあそんなところだろう。本当は、それ以上の関係にもなれたらいいなと、ずっと思ってはいたけれど。
「あたしさぁ、引っ越すことになったんだ」
「え?」
それは、突然すぎる告白だった。
「引っ越す……?」
うん、と言ってお姉さんは、三本目の煙草を灰皿に押し付けた。
「実は、結婚することになってね」
それも、突然すぎる告白だった。
婚約者が、いたんだ――。
「それで、彼と一緒に新居に引っ越すことになって……今日は、お別れを言いに来たの」
「そう……なんだ」
結婚と言うのは、おめでたいことだ。
でも、素直に祝福できない僕がいる。
それはこのお姉さんが、僕の知らない人と結婚するからだろう。
知らない男の人と。
「荷物もまだ全部は片付いてないんだけど、来週の頭には引っ越すの」
「そう……」
「この部屋にも、もう来ることなくなっちゃうね」
「……うん」
この部屋は一人暮らし用の六畳一間。二人でいるには狭い。
でも、今日からはこの部屋を広く感じてしまうような気がした。それだけ、この部屋におけるお姉さんの存在というものは、僕にとって大きかったんだ。
長い沈黙。静止する時間。
聞こえるのは、クーラーの稼動音。
静止した時間を動かすように、お姉さんが四本目の煙草に火を点けようとした。
「……っと、いけないいけない」
あはは、と笑って、お姉さんは煙草をケースに戻した。
「そろそろ煙草も止めなきゃなぁ」
他人事のように、うわ言のように、お姉さんが呟いた。
「寂しく……なるね」
僕がそう言うと、お姉さんが、そうね、と頷いた。
「二年とちょっと……色々あったもんね」
本当に、色々なことがあった。
一緒にご飯を食べたり、買い物に付き合ってもらったり、勉強を見てもらったり。
でも、それも今日まで。
「まあ、最初の頃と違って、君もだいぶ一人暮らしに慣れてきたし、あたしがいなくても、ちゃんとやっていけるわ」
「……うん」
僕には、頷くことしかできなかった。
「これからも頑張って、立派な大人になるのよ」
「……うん」
「よし! じゃ、これはあたしからの餞別だ」
「……っ!?」
お姉さんは、僕の唇に自分の唇を重ねて来た。
かすかに煙草の味がする。嫌な味ではない。
長いキスだった。一分か、二分か、いや、もっとだった。
唇を離すと、んふ、とお姉さんが笑った。
「大人のキスってやつがどんなものか、ちょっとは分かったかな?」
「……分かんない」
「あははっ! よしよし、上出来だ」
寂しい雰囲気にならないようにお姉さんが気を遣ってくれているのはよく分かった。でも、その気遣いが少し痛かった。
それから数日後、お姉さんは引っ越して行った。
お別れは笑顔で、とはよく言ったもので、お姉さんは別れる最後の瞬間までずっと笑っていた。
もう、あの笑顔を見ることもできなくなるんだ。
ぽっかり胸に穴が開いたような感覚。
面倒を見てくれる人がいなくなって、というよりも、好きな人が目の前からいなくなってしまったことが、何より辛い。
でも、いつまでもそれじゃいけない。
立派な大人になるって、お姉さんと約束したんだ。
お姉さんが結婚することはおめでたいことだから、ちゃんと祝福してあげなくちゃいけない。好きな人が知らない人と結婚するからっていつまでもウジウジするのは、子供のすることだ。
その日の夜、僕は外に散歩に出た。
近くにある川まで歩き、橋の真ん中辺りで立ち止まる。
僕は手に握っているものを見た。
残り数本しか入っていない、煙草の箱。あの日、お姉さんが置いて行ったものだ。もうあの人には必要のないものなのだろう。
一本取り出し、口に咥えて火をつけてみる。
「……まずっ」
嫌な味だった。僕は一吸いしただけで煙草を踏み消した。
どうやらこの大人味に馴染むには、もう少し時間が必要らしい。
だから――
「……さよなら、お姉さん」
僕はお姉さんの残り香を、川に向かって放り投げた。
そう言って部屋に入ってきたのは、202号室に住んでいるお姉さん。
いわゆる、お隣さんだ。
僕より6つ年上で、僕がこのアパートに引っ越してきた時から、何かと面倒を見てくれる、頼りがいのあるお姉さんだ。
高校が家からじゃ通えない距離にあるということで、中学卒業と同時に、僕はこのアパートに引っ越してきた。
高校生の男子が一人暮らしをするというのは結構大変で、さすがに2年以上一人暮らしをやってるおかげで今はだいぶ慣れたけど、最初は何かと苦労した。何せ料理もろくにできないもんだから、ついついコンビニに頼った食生活を送ってしまい、バイトはしているものの、生活費の大半は食費に消えてしまい、自由に遊ぶお金は意外と少なかった。
そんな僕がいろいろとお世話になったのがこの隣のお姉さんで、たまに料理を作って持ってきてくれたり、むしろ一人暮らしのための簡単な料理の作り方も教えてくれて、おかげで今じゃ食費はピーク時の半分くらいになっている。
「ごめんねぇ、また涼みに来たよ」
そう言って、お姉さんはベッドの上にどかっと座った。お姉さんの部屋は今クーラーが壊れているらしく、事あるごとに僕の部屋に涼みに来る。まあ、もはやこのお姉さんとは姉弟みたいな仲だし、今更そんなことは気にしない。
「やっぱクーラーは良いよねぇ」
シャツをパタパタと煽ってから、お姉さんは煙草を取り出して火を点けた。
僕の部屋には、主である僕が煙草を吸わないのに、灰皿が置いてある。
もちろん、このお姉さんが吸うためだ。初めて会った時からこの人は煙草を吸っていたけど、その時既に二十歳は超えていたから、別にとがめる理由も無い。
「今何してたの?」
「うん、そろそろ期末テストだから、ちょっと勉強を……」
「ふーん、真面目な学生さんねぇ」
お姉さんには、勉強面でもお世話になった。
高校を出てすぐにOLになったこのお姉さんだが、かなり勉強はできる人らしく、僕が分からないところを聞くと、文系理系を問わずに教えてくれた。
家庭教師にして料理の先生にして姉。まあそんなところだろう。本当は、それ以上の関係にもなれたらいいなと、ずっと思ってはいたけれど。
「あたしさぁ、引っ越すことになったんだ」
「え?」
それは、突然すぎる告白だった。
「引っ越す……?」
うん、と言ってお姉さんは、三本目の煙草を灰皿に押し付けた。
「実は、結婚することになってね」
それも、突然すぎる告白だった。
婚約者が、いたんだ――。
「それで、彼と一緒に新居に引っ越すことになって……今日は、お別れを言いに来たの」
「そう……なんだ」
結婚と言うのは、おめでたいことだ。
でも、素直に祝福できない僕がいる。
それはこのお姉さんが、僕の知らない人と結婚するからだろう。
知らない男の人と。
「荷物もまだ全部は片付いてないんだけど、来週の頭には引っ越すの」
「そう……」
「この部屋にも、もう来ることなくなっちゃうね」
「……うん」
この部屋は一人暮らし用の六畳一間。二人でいるには狭い。
でも、今日からはこの部屋を広く感じてしまうような気がした。それだけ、この部屋におけるお姉さんの存在というものは、僕にとって大きかったんだ。
長い沈黙。静止する時間。
聞こえるのは、クーラーの稼動音。
静止した時間を動かすように、お姉さんが四本目の煙草に火を点けようとした。
「……っと、いけないいけない」
あはは、と笑って、お姉さんは煙草をケースに戻した。
「そろそろ煙草も止めなきゃなぁ」
他人事のように、うわ言のように、お姉さんが呟いた。
「寂しく……なるね」
僕がそう言うと、お姉さんが、そうね、と頷いた。
「二年とちょっと……色々あったもんね」
本当に、色々なことがあった。
一緒にご飯を食べたり、買い物に付き合ってもらったり、勉強を見てもらったり。
でも、それも今日まで。
「まあ、最初の頃と違って、君もだいぶ一人暮らしに慣れてきたし、あたしがいなくても、ちゃんとやっていけるわ」
「……うん」
僕には、頷くことしかできなかった。
「これからも頑張って、立派な大人になるのよ」
「……うん」
「よし! じゃ、これはあたしからの餞別だ」
「……っ!?」
お姉さんは、僕の唇に自分の唇を重ねて来た。
かすかに煙草の味がする。嫌な味ではない。
長いキスだった。一分か、二分か、いや、もっとだった。
唇を離すと、んふ、とお姉さんが笑った。
「大人のキスってやつがどんなものか、ちょっとは分かったかな?」
「……分かんない」
「あははっ! よしよし、上出来だ」
寂しい雰囲気にならないようにお姉さんが気を遣ってくれているのはよく分かった。でも、その気遣いが少し痛かった。
それから数日後、お姉さんは引っ越して行った。
お別れは笑顔で、とはよく言ったもので、お姉さんは別れる最後の瞬間までずっと笑っていた。
もう、あの笑顔を見ることもできなくなるんだ。
ぽっかり胸に穴が開いたような感覚。
面倒を見てくれる人がいなくなって、というよりも、好きな人が目の前からいなくなってしまったことが、何より辛い。
でも、いつまでもそれじゃいけない。
立派な大人になるって、お姉さんと約束したんだ。
お姉さんが結婚することはおめでたいことだから、ちゃんと祝福してあげなくちゃいけない。好きな人が知らない人と結婚するからっていつまでもウジウジするのは、子供のすることだ。
その日の夜、僕は外に散歩に出た。
近くにある川まで歩き、橋の真ん中辺りで立ち止まる。
僕は手に握っているものを見た。
残り数本しか入っていない、煙草の箱。あの日、お姉さんが置いて行ったものだ。もうあの人には必要のないものなのだろう。
一本取り出し、口に咥えて火をつけてみる。
「……まずっ」
嫌な味だった。僕は一吸いしただけで煙草を踏み消した。
どうやらこの大人味に馴染むには、もう少し時間が必要らしい。
だから――
「……さよなら、お姉さん」
僕はお姉さんの残り香を、川に向かって放り投げた。