帰れぬ村
「一人も?」
若者は首を傾げた。
「そうなのです。数え切れないほどの旅人が今までこの村を訪れましたが、帰ってきた者は誰一人としていないのです」
宿屋の主人が答える。
「みなさん、旅の途中でこの村に寄られるのですから、戻って来ない人がいるのは当たり前のことなのですが、しかしたったの一人もいないというのはいささかおかしいと思いまして……」
「ふうむ……」
「それだけではないのです。一晩だけ泊まってこの村を出て行かれるのならともかく、数日宿泊する予定の人も、やはり帰って来ないのです」
「それは、例えば一週間ほど滞在する予定の客が、三日目辺りで帰って来なくなるとか、そういうことか?」
「左様にございます」
「なるほどなぁ……それは確かに不自然だな」
若者は湯のみを手に取り、音を立てて茶を飲んだ。
「何か心当たりはないのか?」
「と、申しますと?」
少なくなった湯のみに主人が茶を注ぐ。
「旅人は、例外なくあの山に向かって行ったのだろう?」
若者が前方に見える山を指差した。その通りです、と主人が頷く。
「ものすごく強い山賊が住んでいるとか、むしろ人ではない化け物の類が住んでいて、やって来た旅人を食い殺してしまうとか、そういう話はないのか?」
「さあ……何せ誰も戻って来ませんからね」
「それもそうか。あの山に何があるか判明したところで、その情報を持っている奴は戻って来ないわけだものな」
火がなければ煙も立ちようがないというものだ。
「よし!」
若者が湯のみを置いて立ち上がった。
「俺が明日あの山に行って、何があるのか確かめてこよう」
「それは、帰って来るという意味ですか?」
「もちろんだ」
「し、しかし……」
「なあに、本当に山賊や化け物がいたところで心配には及ばない。腕には自信がある」
必ず帰ってきてみせるさ、と若者は力強く自分の胸を叩いた。
「何もないな……普通の山だ」
山に入ってからすでに数時間が経過している。じきに山頂に着いてしまいそうな勢いだ。
しかしここまでに、山賊や化け物はおろか、動物の一匹さえも出てこなかった。神経を研ぎ澄ませて周りの様子をうかがっても、生き物の気配はまるでない。
「何者かに襲われて命を奪われた、というわけではないのか?」
若者は手頃な岩を見つけ、座って一休みすることにした。
「となると、地形の問題だろうか?」
天然の罠とでも言うべきか、誰かの手によって人工的に作られたものではないが、普通に歩いている分には全く気付かずに嵌まってしまう落とし穴とか――。
「しかし、もう山頂だぞ」
ここに来るまでにそんなものはなかった。仮にあったとしても、若者はそれに引っかかることなくここまで来た。もしも本当にそういう罠のようなものがあったとして、今まで数え切れないほどの旅人が一人残らずかかってきたのなら、若者一人だけが何もなかったというのは解せない。初めから警戒していたのならともかく、普通に歩いてきただけなのにそれを回避できる確率は、限りなくゼロに近いだろう。
「では、この先に何かあるのだろうか」
あと三十分もあれば、山頂には到着する。
「行ってみるのが早いか」
若者はかばんから水を取り出し、二口ほど飲んでから、山頂に向けて再び歩を進めた。
三十分後。
結局、何事もないまま、若者は山頂に到着した。
「何だぁ……? さらに先に行かないと何もないってのか?」
しかし帰ることを考えると、これ以上先に進むのはあまり得策ではない。
若者は腕を組んで目を閉じ、考えることに集中した。
全員が例外なく、帰りの時間を計算せずにさらに先に進んだ可能性は、そんなに高いとも思えない。ここまで来て何もなかったから引き返そうと思った奴は、一人や二人じゃないはず。しかし現に、あの村に帰った者は一人もいない。
「となると、更にこの先に何かあるというのだろうか」
あまり先に行き過ぎると、今日中に村に帰れなくなってしまう。
もう少し進むか、ここで引き返すか。
「……まあ、最悪、今日帰れなくたって良いものな」
今日中に帰れないと駄目ということはない。精々、宿代がもったいないくらいなもので、この先に何があるのかを知るためなら、それくらい犠牲にしたって何ら惜しくはない。
「よし」
若者は決心して、さらに先に進むことにした。
三日後。
「う~む……いったいどうなってるんだ……」
進めど進めど何一つ不思議なことは起こらない。気がついたら山を二つも越えてしまっていた。
「しかたない。あと少しだけ先に進んでみるか……ここまで来たのに何の成果も得られずに引き返すのは悔やまれる」
若者は三つ目の山登りに差しかかった。
宿屋の主人は一仕事を終え、自室でくつろいでいた。
かたわらには、先日の旅の若者が残していった荷物がある。現金こそないものの、若者が置いていった服などは、かなり上等なものだ。高く売れるのは間違いない。
「さて……次のカモは誰にするかね」
若者の荷物を見ながら、ご主人は口の端を吊り上げて笑った。
若者は首を傾げた。
「そうなのです。数え切れないほどの旅人が今までこの村を訪れましたが、帰ってきた者は誰一人としていないのです」
宿屋の主人が答える。
「みなさん、旅の途中でこの村に寄られるのですから、戻って来ない人がいるのは当たり前のことなのですが、しかしたったの一人もいないというのはいささかおかしいと思いまして……」
「ふうむ……」
「それだけではないのです。一晩だけ泊まってこの村を出て行かれるのならともかく、数日宿泊する予定の人も、やはり帰って来ないのです」
「それは、例えば一週間ほど滞在する予定の客が、三日目辺りで帰って来なくなるとか、そういうことか?」
「左様にございます」
「なるほどなぁ……それは確かに不自然だな」
若者は湯のみを手に取り、音を立てて茶を飲んだ。
「何か心当たりはないのか?」
「と、申しますと?」
少なくなった湯のみに主人が茶を注ぐ。
「旅人は、例外なくあの山に向かって行ったのだろう?」
若者が前方に見える山を指差した。その通りです、と主人が頷く。
「ものすごく強い山賊が住んでいるとか、むしろ人ではない化け物の類が住んでいて、やって来た旅人を食い殺してしまうとか、そういう話はないのか?」
「さあ……何せ誰も戻って来ませんからね」
「それもそうか。あの山に何があるか判明したところで、その情報を持っている奴は戻って来ないわけだものな」
火がなければ煙も立ちようがないというものだ。
「よし!」
若者が湯のみを置いて立ち上がった。
「俺が明日あの山に行って、何があるのか確かめてこよう」
「それは、帰って来るという意味ですか?」
「もちろんだ」
「し、しかし……」
「なあに、本当に山賊や化け物がいたところで心配には及ばない。腕には自信がある」
必ず帰ってきてみせるさ、と若者は力強く自分の胸を叩いた。
「何もないな……普通の山だ」
山に入ってからすでに数時間が経過している。じきに山頂に着いてしまいそうな勢いだ。
しかしここまでに、山賊や化け物はおろか、動物の一匹さえも出てこなかった。神経を研ぎ澄ませて周りの様子をうかがっても、生き物の気配はまるでない。
「何者かに襲われて命を奪われた、というわけではないのか?」
若者は手頃な岩を見つけ、座って一休みすることにした。
「となると、地形の問題だろうか?」
天然の罠とでも言うべきか、誰かの手によって人工的に作られたものではないが、普通に歩いている分には全く気付かずに嵌まってしまう落とし穴とか――。
「しかし、もう山頂だぞ」
ここに来るまでにそんなものはなかった。仮にあったとしても、若者はそれに引っかかることなくここまで来た。もしも本当にそういう罠のようなものがあったとして、今まで数え切れないほどの旅人が一人残らずかかってきたのなら、若者一人だけが何もなかったというのは解せない。初めから警戒していたのならともかく、普通に歩いてきただけなのにそれを回避できる確率は、限りなくゼロに近いだろう。
「では、この先に何かあるのだろうか」
あと三十分もあれば、山頂には到着する。
「行ってみるのが早いか」
若者はかばんから水を取り出し、二口ほど飲んでから、山頂に向けて再び歩を進めた。
三十分後。
結局、何事もないまま、若者は山頂に到着した。
「何だぁ……? さらに先に行かないと何もないってのか?」
しかし帰ることを考えると、これ以上先に進むのはあまり得策ではない。
若者は腕を組んで目を閉じ、考えることに集中した。
全員が例外なく、帰りの時間を計算せずにさらに先に進んだ可能性は、そんなに高いとも思えない。ここまで来て何もなかったから引き返そうと思った奴は、一人や二人じゃないはず。しかし現に、あの村に帰った者は一人もいない。
「となると、更にこの先に何かあるというのだろうか」
あまり先に行き過ぎると、今日中に村に帰れなくなってしまう。
もう少し進むか、ここで引き返すか。
「……まあ、最悪、今日帰れなくたって良いものな」
今日中に帰れないと駄目ということはない。精々、宿代がもったいないくらいなもので、この先に何があるのかを知るためなら、それくらい犠牲にしたって何ら惜しくはない。
「よし」
若者は決心して、さらに先に進むことにした。
三日後。
「う~む……いったいどうなってるんだ……」
進めど進めど何一つ不思議なことは起こらない。気がついたら山を二つも越えてしまっていた。
「しかたない。あと少しだけ先に進んでみるか……ここまで来たのに何の成果も得られずに引き返すのは悔やまれる」
若者は三つ目の山登りに差しかかった。
宿屋の主人は一仕事を終え、自室でくつろいでいた。
かたわらには、先日の旅の若者が残していった荷物がある。現金こそないものの、若者が置いていった服などは、かなり上等なものだ。高く売れるのは間違いない。
「さて……次のカモは誰にするかね」
若者の荷物を見ながら、ご主人は口の端を吊り上げて笑った。