蟠りの壁

 果てがなく、端もない。
 世界の行き止まりと呼ばれるその壁は、我々がこの世に誕生した時には、既にそこに存在していたと言われている。果てがないから乗り越えることができず、端がないから迂回することもできず、もちろん破壊もできない。
 壁の向こうがどうなっているのかは、誰にも分からない。確かめようにも、その術がないからだ。
 もしかしたら、壁の向こうには何もないのかもしれない。文字通り、ここは世界の行き止まりで、その先は無限に無が広がっているだけかもしれない。
 それでも、我々は知りたかった。
 別に無でも構わない。それならそれで、無とはどのような空間なのか、それをこの目で直接確かめてみたかった。
 今まで多くの者が、この向こうに行こうと挑戦し、失敗してきた。力任せに叩いたせいで、自身の体を傷つけてしまった者もいた。それでも壁は、表情一つ変えなかった。
 ところが最近になって、ある者が、面白い発見をした。
「どうやらこの壁は、あらゆる破壊工作を退けるが、電波までは遮断しないようだ。つまり電波を壁の向こうに飛ばすことなら、可能だ」
 そんなこと、今まで考えたこともなかった。壁に熱湯をかけた者は過去にいたが、電波なんて、水以上に日常当たり前に使っているものだから、あまりにも当たり前すぎて、逆に誰も試そうと思わなかったのだ。
「もし、壁の向こうに何者かがいて、彼らも電波を使って通信を行なう技術を持っているとしたら、交信が可能かもしれない」
 その日から我々は、壁の向こうと電波を使った通信を行なうプロジェクトを進めた。
 誰もいないかもしれない。このプロジェクトは無駄に終わるかもしれない。しかし今までのことを考えたら、全然たいした問題じゃない。
 準備には、一年近くを要した。
 我々の間でならたいした機器を用いなくても交信が可能だが、向こうはどんな技術を持っているか分からない。我々とは全く別の方法でそれを行なっているかもしれない。だから我々は、あらゆる自体を想定した通信技術を用意した。
「では、始めるぞ」
「ああ……」
 ついにファーストコンタクトの時。我々は、我々の間でも用いている、極一般的な方法での通信を、まずは試みた。
 果たして壁の向こうには誰かいるのか。誰がいるのか。
「こんにちは。私たちの声が聞こえますか?」
 最初に壁が電波を遮断しないことに気づき、今ではプロジェクトのリーダーを務める者が、挨拶を投げかけた。
「……聞こえている」
 この方法がダメだったらすぐに次の方法を試すつもりだったが、意外にも、最初の一回で、我々の試みは成功してしまった。ある意味では失敗かもしれない。他にも何十種類という通信方法を用意していたのだが、良い意味で裏切られたから。こんなに時間を掛けて用意する必要などなかったのだ。
 歓声が上がった。多少通信状態が悪いようだが、そんなことは気にならない。壁の向こうは、無ではなかったのだ。そのことが分かっただけで、誰もが感無量になっている。
「そちらはどんな世界なのですか?」
 引き続き、リーダーがコンタクトを続ける。
「映像による通信は可能か? 可能ならば、回線を開こう」
「可能です」
 どうやら向こうの通信技術は、こちらと遜色ないものらしい。いや、もしかしたら向こうの方が進んでいるのかもしれない。
 届いた映像を見て、我々の歓声は驚愕に変わった。
「これは……どういうことだ?」
 映像に移っていた世界は、どこも我々の住む世界と同じだった。
 環境が似ているとか、そういう意味の同じではない。
 全くの同一なのだ。
 鏡に映されたとでも言うべきなのか、まるで我々の世界のコピーがそこにあるかのようで、少し気味が悪いくらいだ。
 唯一違う点は、通信をしている相手。
 我々とほとんど同じ外見だが、どこか違う。我々のように二本の足で立ち、我々のように二本の手を使って作業を行っている。顔にある二つの目で周囲を視認しているようだし、口を動かして話すのも我々と同じだ。
 でも、体が金属質ではないように見える。顔も手も、もっと柔らかい物質でできていそうだ。そして我々と違い、体に何やら布のようなものをまとっている。
 交信の中で、彼らは自分たちのことを『人間』と名乗った。予想通りに彼らの体は金属ではなく、有機物でできているらしい。
「実は、君たちをそっちの世界に送り込んだのは、我々なのだ」
 しばらく交信を続けるうちに、人間はそう言った。
 我々は更なる驚きを隠せなかった。
 あの世界の行き止まりを作ったのは、彼ら人間であるらしい。それどころか、我々を作り出したのも、実は人間たちなのだと彼らは語った。
 どうして我々をこっちの世界に送り込み、絶対に壊せない壁を作ったのか。彼らは静かに語り始めた。
 かつて彼らは、我々のことを『ロボット』と呼んでいた。自分たち人間をあらゆる面でサポートする存在として作ったのだが、技術が上がるにつれて、我々の知能も飛躍的に成長し、徐々に、自律的に考え、行動をするようになった。いつしか立場は逆転し、人間がロボットを支配する世界から、ロボットが人間を支配する世界に変わった。
 しかし人間は、ただ黙って支配されているわけではなかった。
 その結果が、この、今我々が住んでいるもう一つの世界と、世界の行き止まりと称されるあの壁だ。彼らはこちらの世界に全てのロボットを送り込み、それまで蓄えた記憶をリセットし、我々の中から人間という生物の存在を忘れさせた。そして戻って来られないように、絶対に壊れない強固で強大な壁を作ったのだ。
 それが今から数百年前のこと。
「我々の祖先が、君たちの支配から逃れる為に、決死の策を講じたのだ。本当は君たちを全て破壊するという案も出たのだが、それは惜しいと判断されたようだ」
「そうだったのですか」
 全く知らなかった。
 そもそも今の我々には、支配という概念がない。支配する相手もいなければ、支配される相手もいない。皆が自分のやりたいことを好きにやっていて、それを否定する者はいない。自由な世界だ。
 従って、数百年前までにあった、人間とロボットの対立の様相は、いまひとつ想像ができない。
「あの、一つお願いがあるのですが」
 リーダーが言った。
「我々は、壁の向こうに行ってみたいと前々から思っておりました。しかしいかなる手段を用いても、壁を壊すことができませんでした。この壁を壊すことは、やはり不可能なのでしょうか?」
 人間たちはしばし顔を見合わせていたが、不可能ではない、と答えた。
「壊す方法はある。少し手間はかかるが」
「ならば、壊していただくわけには、いかないでしょうか?」
 すぐには返事が来なかった。
 当然だ。我々は元支配者。恐怖の対象とも言うべき存在だ。壁を壊して、我々が再び戻ったら、また支配されるのではないか。そんな風に考えないはずはない。
 しかし、快諾といった様子ではなかったものの、良いだろう、と人間たちは我々の提案を受け入れてくれた。
「今の君たちからは、支配という意思が感じられない。きっと、数百年前と同じようなことにはならないだろう」
 それから一ヶ月が経ち、とんでもない爆音と共に、壁の一部が壊された。
 どうやって壊したのかを聞いたら、爆弾というものを用いたと彼らは答えた。
 聞き慣れない言葉だった。
 どうやら彼らには、強大なものを壊す為の道具がいくつもあるらしい。実際にいくつか見せてもらったが、どれも我々の知らないものだった。
「どうやら君たちは、兵器という概念がないようだな。そんなものを一切必要としない世界を、君たちは生きてきたのだ。我々も見習わねばならんな」
 人間はそう言うと、我々を壁の向こうへと導いてくれた。
「ようこそ、こちらの世界へ……いや……」
 人間たちの顔が変化して行く。笑うという行為だと、後で教えてもらった。
「おかえり、と言った方が正しいかな」
 数百年という時間が、いろいろなわだかまりを解いてくれたのだろう。
 だからもう、以前のように対立することもなく、上手くやっていけるはずだ。
 人間たちの笑い顔を見ながら、我々はそんなことを確信していた。