手の届く宝物と手の届かない宝物
時々、仕事とか人間関係とか、身の周りの全てが鬱陶しく感じることがある。そういう時は、特に嫌っていない人に話しかけられても、会話が億劫になる。知らない人同士の他愛のない会話が耳に入って来るだけでも、舌打ちしてしまう。携帯電話の着信音が鳴るだけで、思わずため息が漏れてしまう。それなりに大事に想っている相手に対しても、この時ばかりは、近くに寄って来て欲しくないと思ってしまう。たとえ冗談であっても、その人の怒鳴り声でも聞いた日には、呼吸が乱れるどころの騒ぎではないだろう。
一切が、ストレスの元にしかならない。
時間が流れ続ける限り、負のエントロピーは否応なしに増大を続け、僕の精神を不躾に食い荒らして行く。
だから、何者にも邪魔されない、時間の止まった場所にいたかった。
どこに行けばそれが叶うのか分からなかったから、目的地も定めず、僕は適当な電車に乗って、適当な駅で降りた。
足が棒になるまで歩き回って、すっかり日も落ちてしまった。
気がついたら、丘の上にいた。初めて来る場所だった。
足を休め、力尽きるようにその場に座り込む。
良い場所だと思った。
風もなく、音もない。人工的な明かりも電波も届かない。
座っているのがもったいなくて、僕は仰向けに寝転がった。
視界に入って来るのは、満天の星空と、淡い月明かり。誰の邪魔もせず、また誰にも邪魔されずに、彼らはただ、そこにいて、目に優しい光を放っている。
時間の止まった場所。
僕が求めていたのは、まさにこんな場所だった。
何を拒むでもなく、何を受け入れるでもない。どこまでも深く、息をすることさえ申し訳なく思ってしまうほどに静かな、無限に広がる天然の箱庭。
いっそ本当に息を止めてしまおうかという、そんな錯覚に襲われたくなる。このままこの場所で永遠に眠り続けることができるのが、とても幸せなことに思えた。
目を閉じると夢から覚めてしまいそうだったので、僕はずっと夜空を眺め続けた。
三時間くらい、僕は死んだように動かなかった。永遠に比べたら三時間なんて瞬きにすら値しない一瞬でしかないだろうけど、それでも僕の食い荒らされた精神が回復するには十分な時間だった――と思う。
それに、本当にいつまでもここにいることは残念ながらできない。全てを放り投げるには、まだ捨てられない荷物がいくつも残っている。こんな一過性の気の迷いでそれらを捨ててしまえるほど、僕は人生に絶望していない。
「さて……と」
僕は立ち上がり、服に張りついた草を払い落した。
「ありがとう」
もしかしたらまた来ることがあるかもしれない。でも、ひとまずは今日、こうして羽根を休ませてくれたことに感謝して、その場を後にする。
かなり遅い時間になってしまった。帰りの電車のことなんて何も考えてなかったから、当然終電も何時に出るのか知らない。間に合うと良いが、まあもし間に合わなかったとしたら、あそこに戻って一晩過ごせば良い。今の時期なら、凍死することはないだろう。
そんなことを思っていたら、不意にポケットの中で携帯電話が振動した。どうやら電波の届くところまで戻って来たようだ。
ため息は出なかった。
電話を手に取ると、見慣れた名前がディスプレイに映っている。
「こらぁ〜」
通話ボタンを押すなり、聞き慣れた緩い声が耳に飛び込んで来た。
「しばらく電話がつながらなかったけど、どこで何してたのよ?」
この声を最後に聞いてからまだ一日も経っていないのに、随分と懐かしい感じがする。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ、もちろん。何だっけ?」
「もう! どこで何してたって聞いてるの」
呼吸の乱れは一切ない。今の僕は、極めて落ち着いている。
「夜空を一人占めしてたんだ」
「はあ? 何よそれ」
怒鳴り声が一瞬にして呆れ声に変わった。それからすぐに、ぷっと吹き出す声が向こうから聞こえる。僕が何を言ってるのかは分からなかったけど、僕がどうでもいいことを言っていることは分かったのだろう。
「ね、ね、それよりさ。今どこなの? 暇ならどこか遊びに行こうよ。迎えに行ってあげるからさ」
「……君と? これから?」
もう夜も遅い。良い子なら寝ている時間だ。
「何して遊ぶつもりだい? こんな時間から」
「男が野暮なこと訊くんじゃないの」
受話器の向こうから、彼女のかすかな笑い声が聞こえた。
「夜空だけじゃないでしょ? 一人占めできるのは」
「……ああ、そうだね」
受話器を耳に当てたまま、もう一度だけ夜空を見上げる。
僕は何のために、今日ここまで来たんだっけ。ふとそんなことを思ってしまう。
思わず笑い声が漏れた。
「……何よ」
「いや、何でも」
そう。何でもない。僕の悩みなんて、後になって振り返ってみればどうでもいいことがほとんどだ。
僕だけじゃない。人の悩みなんて、だいたいそんなものだろう。
「それより、どこで待ってれば良いんだい?」
止まった時間が、動き出そうとしていた。
一切が、ストレスの元にしかならない。
時間が流れ続ける限り、負のエントロピーは否応なしに増大を続け、僕の精神を不躾に食い荒らして行く。
だから、何者にも邪魔されない、時間の止まった場所にいたかった。
どこに行けばそれが叶うのか分からなかったから、目的地も定めず、僕は適当な電車に乗って、適当な駅で降りた。
足が棒になるまで歩き回って、すっかり日も落ちてしまった。
気がついたら、丘の上にいた。初めて来る場所だった。
足を休め、力尽きるようにその場に座り込む。
良い場所だと思った。
風もなく、音もない。人工的な明かりも電波も届かない。
座っているのがもったいなくて、僕は仰向けに寝転がった。
視界に入って来るのは、満天の星空と、淡い月明かり。誰の邪魔もせず、また誰にも邪魔されずに、彼らはただ、そこにいて、目に優しい光を放っている。
時間の止まった場所。
僕が求めていたのは、まさにこんな場所だった。
何を拒むでもなく、何を受け入れるでもない。どこまでも深く、息をすることさえ申し訳なく思ってしまうほどに静かな、無限に広がる天然の箱庭。
いっそ本当に息を止めてしまおうかという、そんな錯覚に襲われたくなる。このままこの場所で永遠に眠り続けることができるのが、とても幸せなことに思えた。
目を閉じると夢から覚めてしまいそうだったので、僕はずっと夜空を眺め続けた。
三時間くらい、僕は死んだように動かなかった。永遠に比べたら三時間なんて瞬きにすら値しない一瞬でしかないだろうけど、それでも僕の食い荒らされた精神が回復するには十分な時間だった――と思う。
それに、本当にいつまでもここにいることは残念ながらできない。全てを放り投げるには、まだ捨てられない荷物がいくつも残っている。こんな一過性の気の迷いでそれらを捨ててしまえるほど、僕は人生に絶望していない。
「さて……と」
僕は立ち上がり、服に張りついた草を払い落した。
「ありがとう」
もしかしたらまた来ることがあるかもしれない。でも、ひとまずは今日、こうして羽根を休ませてくれたことに感謝して、その場を後にする。
かなり遅い時間になってしまった。帰りの電車のことなんて何も考えてなかったから、当然終電も何時に出るのか知らない。間に合うと良いが、まあもし間に合わなかったとしたら、あそこに戻って一晩過ごせば良い。今の時期なら、凍死することはないだろう。
そんなことを思っていたら、不意にポケットの中で携帯電話が振動した。どうやら電波の届くところまで戻って来たようだ。
ため息は出なかった。
電話を手に取ると、見慣れた名前がディスプレイに映っている。
「こらぁ〜」
通話ボタンを押すなり、聞き慣れた緩い声が耳に飛び込んで来た。
「しばらく電話がつながらなかったけど、どこで何してたのよ?」
この声を最後に聞いてからまだ一日も経っていないのに、随分と懐かしい感じがする。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ、もちろん。何だっけ?」
「もう! どこで何してたって聞いてるの」
呼吸の乱れは一切ない。今の僕は、極めて落ち着いている。
「夜空を一人占めしてたんだ」
「はあ? 何よそれ」
怒鳴り声が一瞬にして呆れ声に変わった。それからすぐに、ぷっと吹き出す声が向こうから聞こえる。僕が何を言ってるのかは分からなかったけど、僕がどうでもいいことを言っていることは分かったのだろう。
「ね、ね、それよりさ。今どこなの? 暇ならどこか遊びに行こうよ。迎えに行ってあげるからさ」
「……君と? これから?」
もう夜も遅い。良い子なら寝ている時間だ。
「何して遊ぶつもりだい? こんな時間から」
「男が野暮なこと訊くんじゃないの」
受話器の向こうから、彼女のかすかな笑い声が聞こえた。
「夜空だけじゃないでしょ? 一人占めできるのは」
「……ああ、そうだね」
受話器を耳に当てたまま、もう一度だけ夜空を見上げる。
僕は何のために、今日ここまで来たんだっけ。ふとそんなことを思ってしまう。
思わず笑い声が漏れた。
「……何よ」
「いや、何でも」
そう。何でもない。僕の悩みなんて、後になって振り返ってみればどうでもいいことがほとんどだ。
僕だけじゃない。人の悩みなんて、だいたいそんなものだろう。
「それより、どこで待ってれば良いんだい?」
止まった時間が、動き出そうとしていた。