届かぬ想像

 どんな本が好きですかと訊かれたら、意味の分かりにくい本と答える。
 この場合の分かりにくいというのは、文章が暗号めいているとか、意図の掴めない怪文書であるとか、そういうことではない。もちろん、理解するのが困難な難易度の高い学術参考書の類でもない。
 では何なのかと言うと、ある意味では暗号文にニュアンスが近いのかもしれないが、表現の底が深すぎて、一読しただけではその根底に存在している意味を汲み取ることができない文章で構成された本が、私の好きなタイプだ。
 詩的な表現とも少し違う。
 光の差さない深海で流れに逆らわず、ほんの些細な衝撃で割れてしまう、小さな小さな気泡のように、見つけにくく、掴みにくい。そんなひどく曖昧で、相対的でありながらも真の意味は絶対的なものとして確かに底に存在する、そういう文章が私は好きだ。
 意味が理解されない文章は、本来は好ましいものではない。人に読まれることを前提として文章を書いている以上、理解されるものを書く必要がある。
 でも私は、意味の分からない文章の方が魅かれる。美しいと思う。
 たぶん、そっちの方が想像が膨らむからだろう。
 人は、手の届かないものは美化しがちだ。高嶺にある花は、目には見えていても、距離がありすぎる分、正確な審美眼を持って判定することが困難だ。だから、何割かは想像で花の美しさを補う。実際に手に取ってみたら、想像通りに綺麗な花かもしれないし、実はそうでもないかもしれない。しかし手の届かないうちは、美化された想像が真実として自分の中に存在する。
 私の場合も、それと同じかもしれない。
 意味の分からない文章を読んで、一体どんな意味がその文章には隠されているのだろうかと、探ってみる。そして自分なりに解釈を付けてみる。その解釈は想像で構成されている部分が大きいので、やはりある程度は美化されたものになる。この場合の美化とは、自分の好みに合致しやすいという意味であって、必ずしも筆者の意図に沿うわけではない。要するに、都合よく解釈するということである。
 そういう意味では、分かりやすい本は不自由だと思う。こちらに想像力を与えてくれない。用意された一本道を、私はただ歩くだけ。そんなのつまらない。
 理解されるものを書く必要があると言っておきながら、私自身は理解しにくい本に魅力を感じてしまう。とても不器用だなと思う。
 私は、自分では文章を書かない。本も書かないし、日記もつけない。だから、意味の分かりにくい文章を作るとき、その人はどんなことを考えているのかは私には分からない。けれど、書いた本人でさえも真の意図を掴み損ねるような文章こそが、私にとっては洗練された美しい文章なのだと思う。
 深海の泡の気持ちなんて、私には一生分からない。理解できる日が来るとしたら、そのとき、私は私でなくなっているだろう。

天秤

盗られたもの、盗られてないもの

ドングリの背比べ

時を告げる鐘の音

敵陣突破

タイムリミット