崇めすぎれば祟られる

この記事はだいぶ前に書かれたものなので情報が古いかもしれません
バベルの塔って本当にあったのかなぁ?

この記事を三行にまとめると

崇めると祟るは実は同じ字だった!
いや、よく見ると違う字だった!
崇めすぎず、祟りすぎず……。
崇める(あがめる)と祟る(たたる)って、よく見たら同じ字なんですよね。

崇める・・・尊敬する。敬う。寵愛する。
祟る・・・災いする。悪い結果をもたらす。

何と言うか、意味合い的には真逆っぽい二つの言葉ですが、でも同じ字が使われるってことは、きっと根源的なところはどっちも一緒なんじゃないかなぁ。

神様を拝んで敬って奉れば何かしらの恩恵にあずかれるかもしれない反面、やりすぎると大いなる災いをもたらされちゃうこともあるぞと。

神を崇めるのは自由だけれど、あまり度が過ぎると祟られる。触らぬ神に祟りはないけれど、触り過ぎれば祟りある。

つまりそういうことなんでしょうなぁ。

バベルの塔を建設して神様の怒りを買ってしまっという前例もありますしね。





……って、こないだ両者の文字を眺めているときに思ったんですけどね。

もっともーっとよく見てみると、確かにほぼ同じ字なんだけど、びみょ〜に違うのよね。完全に一緒だと思ってたわ^^;

崇めるの方は「山」と「宗」を足したような字で、祟るの方は「出」と「示」を足したような字なんですな。

山と宗、そして出と示……なるほど。見えて来ましたよー。

人里離れたの上にある教団体。迷える子羊を救うという一見すると崇高な理念の持った団体でありながら、その実態は入信する人を騙して金を取る詐欺集団。しかし心に穴がある人は、救いの手を差し伸べられたら思わず掴んでしまわずにはいられない。入信中は自分が騙されているなんて気づかない。ひたすら救いを求めて、身も心もお財布も教祖様に捧げてしまう。教祖を絶対の存在と崇め、敬い、奉り、全てを失ったところで、お布施が払えないならと破門されてしまう。払えるものが払えない者に救いは訪れない。できれば救ってやりたいが、あなたはもうここからて行かなくてはならないと教祖様にはっきりされてしまう。教団を追い出されて、初めて自分が騙されていたことに気づくが、時すでに遅し。自分にはもう何も残っていない。あるのは教祖に対する恨み。祟ってやりたい、呪ってやりたいという深い闇だけ。

つまりそういうことなんでしょうなぁ。



崇めの末路は祟り。字が違うといえど、やはり崇め過ぎると祟りだけが残ってしまうということに変わりはないのかもしれません。

自分の人生がパッとしないと、テレビとかに出て活躍しているアイドルが、眩しく見えるかもしれない。最初はそれが純粋な崇拝の気持ちだったのかもしれないけれど、段々とそれが負の感情に変わって来て、彼女たちのような成功者が妬ましく思えて来るかもしれない。しまいには祟ってやりたいという思いに変わり、刃物を持って襲いかかっちゃうかもしれない。そうならないように気をつけなきゃいけませんね。

ほどほどに周りのみんなを崇めて満足できるくらいが、一番なのかも。
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