「なぜ人を殺してはいけないのか?」になぜ答えがなければいけないのか?

この記事はだいぶ前に書かれたものなので情報が古いかもしれません
なぜ?

この記事を三行にまとめると

なぜ人を殺してはいけないのか?
なぜ赤信号に突っ込んではいけないのか?
なぜブログを炎上させてはいけないのか?
巷でちょっぴり普通では理解できなさそうな殺人事件が起きたりすると、こんな質問が飛び交うことがあるような気がします。「なぜ人を殺してはいけないの?」と。あとは漫画や小説なんかでも、特定のキャラがそういう質問を投げかけたりしますね。主人公が「何でこんなことするんだ!?」って激昂すると、「では逆に聞きますけど、どうして人を殺してはいけないんですか?」ってね。

往々にしてそういうときって、良い答えが見つからなくて「ぐ……そ、それは……」みたいに言い返せなかったりするんですけど……そもそも、何で答えられなければいけないのかなぁって、僕は思ったことがあります。僕は別に、この質問にちゃんとした、誰もが納得できる答えが絶対になければいけないとは思わないと言うか……「人を殺したら死んじゃうから」くらいの答えでも良いんじゃないのかなぁという気もします。

もし「なぜ人を殺してはいけないのか?」に何かしら明確な答えがなければいけないのなら、もっと他にも「なぜ人を殴ってはいけないのか?」「なぜ人を傷つけてはいけないのか?」「なぜ人を罵ってはいけないのか?」みたいな質問にも、いちいち答えないといけないんじゃないでしょうか。

たぶん多くの人は、人を殴ったり傷つけたり罵ったりしても良いとは思ってないでしょう。でもそれに対して、どうしてそれをやってはいけないのかの答えを、誰もが明確には持ってないと思うんです。持ってないけど、それがいけないってことは分かってるんですよ。だからそれをあえて取り沙汰しない。それと同じことだと思うんです。何と言うか、殺すという場合にだけ反応が過敏のような気がするというか……。

もちろん、人を殴ってケガさせるのと、命を奪うのとは違うのかもしれません。数日で治る程度のケガだったら、謝れば済むかもしれない。でも死んでしまったら、どうやっても取り返しがつかないですからね。でもだからって、取り返しがつくことならやっても良いってわけではないですし、それもみんな分かってることだと思うんです。

まあ、年端もいかないような子供にそれを聞かれたときに答えられないと後々まずいことになるかもしれないとか、そういうのはあるかもしれませんけど。



例えば「目の前の信号は赤だけどアクセル全開で突っ込んで良い」と思っている人はいないと思います。でも、「どうして赤信号にアクセル全開で突っ込んではいけないんですか?」って、いちいち聞かないですよね。聞かないし、もし聞かれたとしても「道路交通法で決まってるから」とは答えないんじゃないでしょうか。もちろんそう答えても間違いではないけど、でもそう答えた人に「じゃあ法律で決まってなきゃ構わず突っ込むんですか?」って聞いても、イエスとは言わないでしょう。たとえ法律で決まってなくても、赤信号に突っ込んでく人はいない。それは何でかってーと、危ないからです。赤信号に突っ込めば、大事故を起こす可能性が高い。車だけじゃなくて、人を傷つけることもある。場合によっては命を奪うこともある。みんなそれを知ってるから突っ込まない。「何で車や人を傷つけちゃいけないの?」なんてことも、いちいち聞かない。

まあ、この場合は他人だけじゃなくて自分の命の危険もあるから、人を殴ったりってのとは少し状況が違いますけど、でも僕の中では「なぜ赤信号にアクセル全開で突っ込んじゃいけないんですか?」ってのと「なぜ人を殺してはいけないんですか?」ってのは、そんなに大差のない質問のような気がします。なぜ殺してはいけないのかに対して、「法律でそう決まってるから」って答えが返って来たとして「じゃあ法律で決まってなかったら人を殺しますか?」って聞いたら、やっぱりイエスとは答えないんじゃないでしょうか。いや、まあ、もしかしたらそんなことはないのかもしれないけど、その辺は僕には分かんないです。

ようするに何が言いたいのかってーと、世の中、はっきりとは答えられなくてもやってはいけないと誰もが理解してることってたくさんあるのに、どうして人を殺してはいけないのかという問いだけ、やたらと答えを求めたがるのかなーってことです。

単に僕の印象がそうってだけで、実際は、なぜ殴ってはいけないのかとかの質問も、同じくらいの頻度で世に出ているかもしれないですけどね。

でも、あれなのかな。「なぜ人を殺してはいけないのか?」の答えは、「それに答えられないと、いざ本当に心の底から何で殺しちゃいけないんだろうって思ってる人を止められないから」みたいなこと……なのかな。内容よりもむしろ、答えられることそれ自体が必要なこと、みたいな。



あくまでもこれは僕個人の意見ですから、あまり深く考えずに、何か変なことつぶやいてるやつがいるぞーくらいな感じで読み流してもらえればと思います。いやほんとに、全然たいしたことは言ってないから。マジでマジで。あと別に「なぜ人を殺してはいけないのか?」の答えを一生懸命探している人に対して、そんなことやったって何の意味もねーよとか思ってるわけでもないから。自分なりの答えがあれば、それはそれで良いことだと思いますし、それが多くの人が納得できるものなら、それは価値のある答えだと思います。

何で最後にこんな弁解っぽいことしてるかというと、炎上を恐れてるからです。この手の問題って、噛みつき方を間違えるとすぐに燃え盛っちゃいますからね。そうならないためにも、別に誰の批判もしていないということを強く主張しておくのです。この記事は、単なる個人の見解に過ぎない、独り言の戯言に過ぎないと。

Q. なぜブログを炎上させてはいけないのか?

A. 恐怖のあまり涙が出ちゃうから。だって女の子だもん。



※この記事を書いている人は純度100%の男です。
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 みんなからのコメント 
2014年12月01日 22:35:55
匿名
人は生きていても意味がないんです、そう思いませんか?
2014年12月01日 22:36:45
匿名
早よ死ねばいいのに
2014年12月05日 00:27:01
まっち~(管理人)
>1さん
うーん、まあねえ……。でも、今生きてても意味ない人は、たぶん死んでも同じことでしょう。もうちょい生きてみたら、意味が出てくるかもしれませんよ。

>2さん
まあまあそんなこと言わんと。遅かれ早かれいずれ死ぬんですから、それまで生きましょうや。
2016年11月01日 10:47:43
eegge
嘗て「何故人を殺してはいけないのか?」という単刀直入の問に対して、大江健三郎や吉本隆明等の所謂知識人は、理窟を捏ね回しているだけで、明確な答えを出すことが出来ませんでした。実際の倫理的判断には時間的猶予はありません、即座に判断し行動しなければなりません。答えは単純です。

「人格に背くから悪である、人格は愛(慈愛)で成り立っている。」
「善悪の判断に迷うことがあれば、愛があるかと自問すればよい。」

これ以上の答えはないはずです。人は法律を犯したから罰を受けるのではありません、人格を犯したから罰を受けるのです。法律は最低限のルールに過ぎません。なぜ桝添元都知事が失脚したかを考えればわかることです。彼も所謂知識人で、法に触れるようなことはしていないと主張しましたが、世論は許しませんでした。都民としては、悪いことはしない普通のことを期待したのではなく、善いことをする「人格者」を期待したのです。

三島由紀夫は所謂知識人(リベラル)のことを「主体なき理性」と言って揶揄しました。知識人には情・意が欠落した人間失格者が多いのです。

倫理問題は情と意の問題であって、頭で論理的に考え、知を尽くしたからといって、答えが出て来るものではありません。真に理性的な人は理性の限界を知り、その使い方を心得ている人です。
2016年11月02日 12:22:13
まっち~(管理人)
>eeggeさん
そうですね。単純に、法に触れるかどうかで善悪が決まるわけではないんですよね。
でも、どうしても言葉で説明できないといけない場面もあったりするので……なかなか難しいです。